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髪 長 姫

麓川 智之
挿絵:Hal

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髪を伸ばすと決めてから、もうじき十一年になろうとしている。

伸ばそうと決めた理由はそれほど大したものではなく、お母さんが「桂は長いほうが似合うんじゃないかしら」と言ってくれたから。

お母さんの髪は程々に長くて、当時男の子みたいに短くなっていたわたしは、お母さんとお揃いにしたいと思ったのだ。言われるまでは気づかなかったけれど、そもそもどうしてこんなに短いのか――

わたしは覚えていなかったから、お母さんに訊いたのだ。

「どうしてわたしの髪の毛、お母さんみたいじゃないの?」

わたしはお母さんっ子だったから、いろいろと真似たがるはずなのだ。なのにどうして短いのか、それを不思議で仕方なかったのだ。思考の手がかりが頭の中にあれば、自分で答え探しをしたのだろうけど、その頃のわたしは自分のことをあまり知らなかったから、お母さんに問うしかなかった。

「桂、あなたはね――」

そうして手に入れたのは、火事が全てを奪っていったという答え。

十と一年ほど前に、煙に巻かれたわたしはお父さんと記憶を失ってしまい、その災いで焼けてしまった髪は短くせざるを得なかったのだと、そう聞いた。

だけれど、それは偽りの出来事。

失われたと思っていた記憶は、わたしが糊塗した虚ろの向こうに隠されていただけで、長い月日にすっかり古びて乾いた嘘は、去年の夏にばらりと崩れ――

わたしは記憶を取り戻した。

優しく髪を梳いてくれる、白い手の持ち主を取り戻した。

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その白い手の持ち主は、お母さんがよくそうしてくれていたように、お風呂上りの湿った髪にブラシをかけてくれている。

毛先から数センチ程度のところから初めて丹念に梳り、徐々にブラシの滑る距離を増やしていき、時間をかけて根元にまで辿りつく。

十と一年ほどの間、伸ばし続けたわたしの髪は長い。

十二歳から二十歳まで高い塔に閉じ込められて、ついにはそのてっぺんから地上に到るまで伸ばしたラプンツェルほどではないけれど、結んでいるのをほどいて下ろせば膝に届く長さになる。

これだけ伸ばしている割には痛みも少なく柔らかく、わたしが人に自慢できるそれほど多くない美点のうちのひとつになっていたりするのは、十と一年ほどの間、お母さんが手間隙かけて慈しんでくれたから。

わたしだけでは手入れが行き届かないので――理由はそれだけではないけれど――お母さんが亡くなりひとりになってしまってからは、分相応の長さに切ってしまおうかと幾度も幾度も思ったぐらいだ。

だけれど今は、大好きな人が髪を梳ってくれるという幸せな時間がある。わたしは日溜りの猫のように目を細めて、頭皮を引かれる僅かな刺激に身をひたす。

「桂ちゃんの髪、ずいぶん長く伸びたのね。小さいころは短かったから簡単だったのだけれど……これだけ長いと大変よね」
「昔みたいに短い方がいい?」

かけられた言葉に不安を覚えて後ろを向こうとすると、ぽんと柔らかく頭を抑えられた。

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「ほら、絡まると大変だからじっとしていて」
「うん……」
「短いときも可愛かったけど、長い方が似合うと思うわ。ずっと昔のことだけれど、桂ちゃんが髪の毛を切ってしまったとき、わたしとても残念だったのよ」

大人しくなったわたしに満足したのか、柚明お姉ちゃんは頭に乗せた手を二度ほど軽く弾ませてから髪の手入れに戻った。

「ねえ、桂ちゃん覚えてる? 桂ちゃんが髪を短くしたときのこと」
「えっと……覚えてるっていうか、思い出したっていうか……」
「ふふ、桂ちゃん、ちゃんと覚えていたのね」
「そりゃあ、まあ……」

わたしの髪が短かったのは、自分で切ってしまったから。だいたい髪の短いわたしを柚明お姉ちゃんが知っているということは、お母さんが火事だと偽ったあの事件よりも前から短かったということだ。何しろノゾミちゃんたちを封じていた鏡に写っていた双子――わたしと白花ちゃんは髪型に到るまで本当にそっくりだったのだから。 そこでひとつ疑問に思った。

事件のせいでも何でもないなら、どうしてお母さんはそんな嘘を?

嘘に到った経緯のどこかに、その必要があるのだろうけど――――――

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切るもんと、双子の兄に向かってわたしは言った。小さなわたしは顔を真っ赤にしながらそう言った。

手にははさみ。ぷくぷくと幼い手にはそぐわない、柚明お姉ちゃんの裁縫道具の古びた形の無骨なはさみ。お祖母ちゃんの形見でもある裁断ばさみ。

わたしはぷりぷりと怒っていたけれど、別にそれを使って切った張ったの大立ち回りを演じようとしていたわけではない。人に刃物を向けてはいけませんと教えられていたし、そういった物の扱いに関してお母さんは厳しかったのだ。はさみはわたしに向いている。更に詳しく対象を絞るなら、根元で握ったわたしの髪を二本の刃で挟み込もうといているところだった。

事の発端はたわいのない白花ちゃんの一言にあった。

「ぼく、大きくなったらゆーねぇをお嫁さんにするんだ」

幼稚園に通い出した男の子が、優しく綺麗な保母さんに向かって言う決り文句のような、本当にたわいのない一言。わたしと白花ちゃんにとって十歳違いの従姉の存在は、保母さん以上に憧れの、本当に大好きなお姉さんであったのだから、白花ちゃんがそういうことを口にしても何らおかしなことはない。

そして、それを聞いて変な気持ちになったわたしも言ったのだ。

「わたしもーっ。わたしも柚明おねーちゃんお嫁さんにするーっ」

白花ちゃんは気が弱いというか、妹のわがままに振り回される性質というか、わたしが後出しの横取りを宣言すると大体は大人しく譲ってくれたりしたものだった。

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けれどこのときばかりは少し意地悪そうに、首を横に振ったのだ。

「だめだめ。桂ちゃんは髪の毛ながいもん。女の子だからお嫁さんはもらえないんだよ」

髪が長いイコール女の子、という考えは短絡的でいかにも子供のものだったけれど、わたしも同じだけ子供で同じだけ短絡だったのだ。

「ううっ……だったら切るもん……」

白花ちゃんに逆らわれたのがショックだったのか、その両方が入り混じった結果か、はては別の要因か――

今となってはどうにも判別が付きがたいのだけれど、わたしは顔をくしゃっと赤く歪めて子供部屋から出て行ったのだ。

「白花ちゃんみたいに短くするもんっ」

そしてその勢いのままにお姉ちゃんの部屋へ行き、裁縫道具をまとめた箱から大きなはさみを取り出して――

髪を切るための物ではなかったけれど、手入れの行き届いていた裁断ばさみは、背筋にぞくっとくる濁音混じりの音を立てて、わたしの髪を切り落とした。

「あ……」

子供特有の細く柔らかな髪が畳に落ちる音と、漏れた吐息に混じった声はほぼ同時。それはわたしのものだったのか、白花ちゃんのものだったのか。

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剥き出しになった首を掠める空気の流れになんともいえない居心地の悪さを覚えて、まとわる髪を探した手が空を切る。何もつかめないてのひらに、わたしはとても不安になった。在るべきものとして在ったはずのものが無い。良く似た気持ちを感じたのは、笑子お祖母ちゃんが亡くなったときのことで――

「桂ちゃん、本当に切っちゃった」

ぼつりとつぶやいた白花ちゃんの声が、ぐるぐるといろいろなことを考えていたわたしを現に呼び戻した。

ほっぺたと口の周りがぎゅっと強張り、鼻の根元がきゅんとなったかと思うと、ぽろぽろ涙が目から零れた。喪失感に打ちのめされ、呼吸が乱れてしゃくりあげる。

「ううっ……うっ……うわあっ」

自分で自分の髪に触ろうとして気が付いた。とても大切なものを失ってしまったのだと、取り返しがつかない事態になって初めて気が付いたのだ。髪を伸ばしていた理由は、わたしが女の子で白花ちゃんが男の子だということもあったけれど――

「桂ちゃん、桂ちゃん、ごめんなさい。ごめんな……あっ」

涙目になって謝りつづけていた白花ちゃんが、とすとすと靴下が畳を踏んで近づく音に気が付いて息を呑んだ。

「こらっ、ただいまって言ったのに誰も返事をしてくれないと思ったら、またお姉ちゃんのお部屋でいたずらしてたのね」

学校から帰ってきた制服姿の柚明お姉ちゃんが、重そうに膨らんだかばんを手に部屋の中に入ってくる。

「ちゃんと片付けてるつもりだけど、お裁縫の道具とか危ないものもあるから勝手に入っちゃ――」

駄目だと続いただろう言葉が、口の半ばで止まった。

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前にも勝手に部屋に入った挙句、大事な本を破いてしまって、大泣きしながらお姉ちゃんの帰りを待っていたということがあった。だから今回もその程度のことなのだろうと、慌てず部屋まで来たのだろうけど。

「けっ、桂ちゃん!? 桂ちゃんよね!? その髪の毛どうしたの!? はさみなんか持ってどうしたのっ!?」

柚明お姉ちゃんは血相を変えてわたしの手から裁断ばさみを取り上げると、手にしていた学生かばんの中にしっかりと仕舞い込んでから、わたしをぎゅっと抱きしめた。

「桂ちゃん一体どうしたの? 白花ちゃんは何か知ってる?」
「あのね、ぼくが桂ちゃんにね……」

白花ちゃんがたどたどしく、だけれどしっかりと経緯を説明した。普段はわたしに振り回されてばかりなのに、やっぱりしっかりお兄ちゃんだったのだ。

「もう、本当になんてことするの……」

事情を飲み込んだ柚明お姉ちゃんは、呆れた声を作って言った。当時はしゅんと萎れたけれど、その声には嬉しげな響きが混じっていたりもしていて。

「真弓さんにお願いして、ちゃんと綺麗に切ってもらわないとね。こんな風にざんばらじゃあ、せっかくの可愛さが台無しだもの」

みっともなく切れた髪の間を、白くたおやかな手串がするする滑っていく。

ああ、わたしはこの感覚が大好きだから――

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「――いちゃん……」

小さい頃に髪を伸ばした一番の理由は、お母さんや柚明お姉ちゃんに髪の毛をいじってもらうのが大好きだったから。長ければそうしてもらえる時間が増えるからだったのだ。

「桂ちゃん……寝ちゃった?」
「えっ!?」

柚明お姉ちゃんの声に、はっと首をめぐらせて――

流れの方向を勢い良く変えられた髪はブラシに絡まり、わたしは痛い思いをした。

「ううっ、痛い……」
「桂ちゃん……だからじっとしていてって言ったのに……」
「ごめんなさい……」

小さい頃のおてんばな気性はずいぶん鳴りを潜めたけれど、衝動的にしでかしてしまうところなんかは相変わらずだった。ううっ、こんなのじゃ駄目だよ。用意周到、転ばぬ先の杖で生きていかないと……

ちょっとだけ反省。思考が堂々巡りになる前に頑張って気持ちを切り替える。よし。

「あのね、お姉ちゃん。わたしわかっちゃった」
「わかったって、何が?」
「お母さんがね、何でわたしに『短くなったのは火事のせい』なんて嘘をついたのか」

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そう自慢気に言ってのけると、ブラシを動かすお姉ちゃんの手が一瞬だけ小休止して、それから何事もなかったかのように動き始めた。

「そうね、どうしてかしらね」

ぜんぜん疑問を持っているようには聞こえなかった。

「ううっ、その余裕な反応……お姉ちゃんにはわかってたんだね?」
「だって、桂ちゃんを考えてのことですもの」

そうなのだ。

わたしが髪を切った逸話の中には、白花ちゃんと柚明お姉ちゃん――あの事件の後は名前すら呼ばれることなく、はじめからいなかったことにされていたふたりともが、動機にも現場にも揃っていたのだ。

柚明お姉ちゃんがユメイさんとして現われた最初の夜に、すべてを忘れて夢にしてと言ったのと同じ理由で、お母さんは嘘をついたのだ。わたしの心が壊れないように、思い出したりしないように。さすがわたしのお母さん。うっかりだけれど用意周到。

「ところでなんだけどね、柚明お姉ちゃん」
「なあに、桂ちゃん」
「わたしが髪の毛切ったとき残念だったって言ってたけど、その割には何だか嬉しそうだったよね?」
「あら、だって――」

はい。おしまいとわたしの頭を撫でた柚明お姉ちゃん、にっこりと。

「桂ちゃん、わたしをお嫁さんにしてくれるんでしょう?」

《   了   》

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