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ひ と と せ の ひ と ひ ら ・ 弥 生

麓川 智之

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開け放した障子戸から、外の風が吹き込んできた。

知らず体を縮こまらせ、身を切る寒さに耐え忍ぶわたし。

そんなわたしと同様に、華やかに装うはずの木々も花びらをしっかり折り畳んでいるか、枝中に引き篭もらせているかが主流といった様子の、世間が色付くにはまだ少し――いや、まだかなり早い今日この頃。

目前に広がる日本庭園には、先日施された雪化粧がわずかながら融けずに残っており、春を告げる緑はといえば、未だ弥(あまね)く生(お)いるまでには至っていない。

訳せば『行進』といった意味になる月に入ったのだから、本当ならズンズン春が近づいてきてもいいはずなのだけれど、暖かな空気や開花前線はどこかで足踏みしているらしい。

「ううっ、寒……」

再びの風に、わたしこと羽藤桂もその場で足踏みを開始する。

時期的には春一番かもしれないそれは春風というには冷たく、天高くから降る陽光をはねてきらきらと輝いていた。

「わ、風光る――」
「――は春の季語ですわね」

春の陽射しを含んだ風がいきいきと輝いて見えるさまを謳う言葉であって、粉雪を舞い踊らせた今のは未だ冬のもの。先ほど説明した通り、見渡す景色は冬模様。

「確かに花とくれば春でしょうけど、花は花でも風花ですわ」

滑舌確かな言葉と共に視界の端から入ってくるのは、見るも艶やかな桃の花。

彼女の振り袖に爛漫と咲き誇るそれを前にしては、高価そうな壺に生けられている温室育ちの桃の枝は、八分九分方開いていても慎ましく見え霞んでしまい――

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ここ東郷屋敷の跡取り娘で、わたしの仲良しクラスメートでもあるお凛さんの出立ちは、想像以上に煌びやかだった。豪奢な衣装に位負けせず、馬子には無理な着こなしを見せてくれているのは、さすが正真正銘のお嬢様といったところ。

いやはや、眼福です。リクエストしたかいがあったというものだ。

「寒かったですか?」
「寒い、寒い。あんたのお色直しの間中、吹きっさらしの部屋で待たされてたんだから」

わたしに代わって応えたのは、同じく仲良しクラスメートの奈良陽子ちゃん。

さっきまでは「へー」とか「ほー」とか言いながら熱心に雛壇やら桃の花を覗き込んでいたのに、そんなことはおくびにも出さず憎まれ口を叩いたりする。

「あら――それは申し訳ありません。奈良さんの体脂肪の薄さにまでは配慮が至りませんでしたわ」

にっこり笑って顔を見合わせるふたり。

鷹揚に構えるお凛さんと違って陽子ちゃんの方はほっぺたとか硬そうだったりと、一見和やかには見えないやり取りだけれど、それもこれもいつものこと。仲良くけんかする猫と鼠じゃないけれど、これもコミュニケーションのかたちのひとつ。

わたしは足踏みに手を擦り合わせる動作を加えて、ふたりの間に割って入る。

「だけど開けっ放しだとやっぱり寒いよ。何とかならない?」

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「そーだそーだ。あたしらはあんたと違って脂肪層薄いんだから、この寒さには耐えられない! 客のもてなしひとつ満足に出来ないで、それで上流階級のお嬢を名乗ろうなんて片腹痛いわ!」
「別に自ら名乗ったことも、今後の予定もございませんけど――」

とお凛さん、人の尻馬に乗った上に勝手に仲間に加えてくれた陽子ちゃんを相手にせず、

「換気も十分のようですし、もうよろしいですわね」

金属のサッシと二重になった障子を閉め、リモコンのスイッチをポチッと押した。どこからかエアコンが動き出す低く唸るような音が聞こえてくる。

火鉢なんかが似合いそうな純和風の東郷屋敷も、実際に住んでいるのは現代に生きる人。表立っては見えずとも文明の利器はしっかり設置されているらしい。

「とりあえず部屋が暖まるまで、甘酒などで内から温めてはいかがです?」

お凛さんが持ってきたお盆には徳利と平盃が三枚、それから朱塗りの器に盛られたひなあられが乗せられていた。

そう、この万全の布陣からしてわかるように本日は三月三日。

女の子のお祭りである桃の節句ということで、十段超えの立派な雛壇を飾っているお凛さんの家に学校帰りに遊びにきたのだ。

「あ、貰う貰う」
「はとちゃん、酔って倒れたりしない?」
「大丈夫だよ、平気だよ」

お母さんの血を引いてるんだから体質的には飲めるはず。

いやまて、お父さんはどうだったんだろう……?

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いやいや、甘酒は酒の字がついてはいるものの、お酒を造った後に残った酒粕を割ったもので、アルコール分はゼロだったり、あってもたがが知れたものだ。

「酒税法では酒類に分類されていませんから、もし未成年が酔っ払っても法律には引っかかりませんわ」
「奈良漬けとかべったら漬けとかと一緒だよね」
「奈良漬けって無性に嫌な響きですわね」
「あたしも漬物はあんま好きじゃないけど、その悪し様な言い方は何だー!」

チョコレートボンボンとかを引き合いに出せば良かったかな、なんて考えを頭の隅に浮かべる一方、お酌してもらった甘酒をふうふうと適温に冷ましつつ、舌に広げて嚥下する。

芳醇な香りと口に広がる自然な甘さ、とろりと適度な粘り気と酒粕のつぶつぶがたまらない。高級な日本酒はフルーティーで飲み易いと聞いたことがあるけれど、これはきっとそういうお酒を造った良い酒粕を使っているのだろう。さすがはお凛さんちの甘酒だ。

喉を下って胃の腑に落ち着くと、身体の芯からぽかぽかとした熱が広がってきて、わたしは幸せな吐息を漏らした。

「ふぃ~、やっぱり寒いときにはこれだよねぇ……」
「それは何より。ですけど羽藤さん、昔は甘酒は寒いときではなく暑いときに飲まれていたそうですわ。夏の季語でもありますしね」

そんな薀蓄を遮るように、陽子ちゃんが空の盃を手にしてお凛さんの方に突き出した。

「お凛、あたしにも」
「あら、酒粕には抗肥満効果があるのですけどよろしいかしら?」

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「うっさいわね。別に太ろうなんて思ってないし、長期的な展望よりは今の寒さを凌ぐのが先なのよ」

そうか、抗肥満効果があるのか。いいこと聞いた。

「わたしももう一杯もらえるかな?」
「ええ、羽藤さんがお酌をして下さるのでしたらいくらでも。奈良さんは手酌でどうぞ」
「にゃにをー!?」

陽子ちゃんはまだ手付かずになっていたお銚子をお盆から引ったくり、わたしに差し出されていたお凛さんの盃に向かって傾ける。

「あら、どうも」
「さ、はとちゃん。はとちゃんはあたしに注いで」
「いいけどね……」

それから三人、室温が落ち着くまでの間をそんな調子で飲んだり食べたりして過ごす。ちなみにひなあられはお米を煎ったライスパフに色砂糖をまぶした関東式で、さくさくとした軽い食感がまた何とも。

「にしても凄いわね、あんたんちのお雛様。うちにもあるけど、なんか比べるのがおこがましいわ」

部屋も身体も温まり、ここで一旦花より団子モード終了。ようやく今日の主役であるお雛様へと目を向けるわたしたち。

「そういえば陽子ちゃんちのお母さんは、雛祭りとか好きそうだよね」
「まーね。人形とか大好きなもんで。それで一応、七段飾りだったりするんだけどさー」

陽子ちゃん、肩をすくめて首を振り。

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「それでもお凛のとこのと比べるとかなりショボいわ」
「陽子ちゃん贅沢だよ。うちなんか去年までは、お内裏さまとお雛様だけ折って飾ってただけだよ」
「折り紙で?」
「ん~、さすがに十二枚で百円とかの安い紙じゃなかったけど」

とはいえ所詮紙は紙。例え手漉きの高級和紙でも、ちゃんとした雛壇を揃えるのに比べれば物凄く安く上がるはず。

「いいなあ、お雛様。羨ましいなあ」
「ですけど羽藤さん。男雛女雛の一対のみが本来の形だったそうですから、それはそれで潔さが好ましいですわ」
「そ、そうかな?」
「ま、紙の人形二対なら、後片付けも楽でいいんじゃない?」
「うーん」

そう言えば、わたしの頭の中には片付けた記憶がさっぱりない。夏にいろいろ片付けたときにも出てこなかったから、処分してたとは思うんだけど……

もしかして、くしゃっと丸めて燃えるごみにポイとか? 確かにそれは潔いけど、好ましさとは対極にあるというか――なんて相変わらず直らない悪癖に引っ張られていたところを、陽子ちゃんの声で引き戻された。

「うちなんて、片付け忘れたママが大騒ぎしたりするからさぁ」
「いつまでも飾っておくと、嫁き遅れるといいますものね」
「や、今のとこそこいらへんは全然気にしてないから。『よーちゃん、どうしよー!?』なんて泣き付かれるのが鬱陶しいだけなんだけど」

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「あら、それは残念ですわ。折角、本来は良くないと忌まれていただけで、婚期云々との因果関係は皆無と教えて差し上げようと思いましたのに」
「へー、そうだったんだ?」
「京都の三年坂と似た経緯でそうなったのですわ」

三年坂には片付け忘れたお雛様同様、転ぶとお嫁に行けなくなるというジンクスがあるんだけれど、もともとは三年以内に死んでしまうといったものが変質したものなのだ。

「そういや行ったわね、修学旅行で」
「三泊四日で奈良・京都」
「そうそう、その何とか坂ではとちゃん転びそうになったりとかしてさー」
「奈良では鹿に追い回されたりもしていましたわね」
「はとちゃんってば太秦の活劇村では――」

修学旅行が行われたのは、紅葉に山燃える二学期のこと。

つい最近の出来事にも思えるのに、半年近い月日に隔てられているということに驚かされる。お母さんがいなくなった夏からは、すでに半年以上の時間が経っている。

「何かいろいろ、あっという間だよね……」

遅いまだかと待ちつづけている春も、実のところすぐ側にまで近づいているのだろう。

修学旅行のわたしの醜態を肴に盛り上がっていた二人も、わたしが漏らしたつぶやきに「そーね」「ですわね」と同意を示し、お凛さんにいたっては未だ実感わかない春の訪れついて、具体例を付け加えてみせる。

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「あと数日で卒業式ですし、春休みを挟んだ一ヶ月後には、わたくしたちも三年生になりますもの」

そして、わたしと陽子ちゃんはほぼ同時に――

「あ、卒業式……」
「そーだ春休み!」

そんな言葉を口にした。

「奈良さん、それは情緒に欠けるのでは?」
「部活とかやってるわけでもないから特に親しい卒業生いないし、それなら有意義な春休みの過ごし方について今から考えとかなくちゃでしょ? 春休みなんてあっという間に来て、あっという間に終わるんだから」

そして自分の言葉にがっくりと肩を落とし、深く大きくため息を吐く。

「ぼちぼち進路のこととかも考えなきゃいけないのよね……ユーウツだ……」

確かに憂鬱、英語でブルー。

うら若き乙女の春なだけにそれも已む無し。

その心は、青春真っ只中ですから――

…………

うーん、いまいちだなぁ。わたし甘酒で酔っ払っちゃってたりするんだろうか?

「お凛はいいよねー。あんた頭いいから、進路は選り取り見取りじゃない?」
「これでも跡取娘ですので、選り取り見取りというわけには」

しかも新作披露をする間もなく、ふたりの話は進んでいる。わたしだけ置いてけぼりは嫌なので、

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「そうなの?」

と首を突っ込んだ。

「ええ、おかげで選択の幅はずいぶんと絞られてしまいますわ」
「にゃるほど、下手に継ぐものがあるってのも大変そーね。あたしはやっぱり気楽な立場がいいわ。そこんとこ考えると、学校の二年が一番よねー」

手酌で満たした杯をぐっとあおって、飲兵衛のおじさんみたいに息を吐き出して。

「ま、持ち上がりだから、四月からもはとちゃんと一緒なのが救いよね」
「うん、同じクラスで良かったよね。少し早いけど、幸先だけはいい新学期のために乾杯でもしようか」
「甘酒で? なんかそれ味気なくない? 折角だから――」
「別のものを用意してもかまいませんが、そのときは奈良さんだけもう一度二年生をすることになるかもしれませんわね」
「うちの学校、そういうこといろいろ細かいもんね……」
「ちょうど二年が一番と聞いたばかりですし、そのように取り計らいましょう」

わずかな衣擦れの音と共に立ち上がり、障子戸の方へと足袋を運ぶお凛さんを、膝立ちになった陽子ちゃんが止める。

「あーっ、別に甘酒でいいわよ! そのかわり春休みにはきっちりお花見やって、そんときゃ夜桜でオールナイトだかんね」
「あ、わたしいい場所知ってそうな人紹介できるよ。ついでに夜間外出の保護者にもなってくれると思うけど、お酒好きだから車は出してもらえないなぁ……」

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「どちら様?」
「ほら、前に陽子ちゃんにも電話かけた――」

そんな調子でお喋りしたり、琴の名取りだというお凛さんの腕前を披露してもらったり、様々な柄の着物を取っ換え引っ換えで着せてもらったりしながら、ほんの少し長くなった陽が傾くまでの時間を楽しく過ごした。

「そういえば今日は女の子のお祭りだけど、桃っていえば桃太郎だよね? なんで男の子は五月なんだろう?」
「はとちゃん……」

真冬のような冷たい空気を琴線が嫋々と震わせる、弥生三日は桃の節句。

そんな移ろう季節の中の、節目を迎えた日の午後のこと。

かえりみれば短い一年の、更に短い一片のこと――

――――

ところで物知りお凛さんの言うところ、弥生は弥(いよいよ)であって弥(あまね)しではないのだそう。「それまでよりもより一層」と「端から端までずずいっと」とでは随分と意味が変わってくる。

それから英語の三月はローマ神話に出てくる戦争の神様マルスに由来しており、行進のマーチもフランスから軍隊用語経由で輸入された言葉が定着した英単語とのこと。

うららかな春と殺伐とした戦争とではイメージに落差がありすぎて、あまりしっくり来ないのだけれど、古来、春は戦争の季節でもあったのだ。

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どんなに精強な将兵を揃えても、冬将軍率いる寒さや餓えにはまず勝てない。

不可能の文字を辞書から消したナポレオンだって、ロシアの冬の訪れの速さを甘く見積もって負け、それを契機に凋落の一途を辿ったのだ。

だから普通は春の雪解けを待って行軍するのだけれど――

やっぱり春は長閑な方がいい。戦いや争いは春闘とか春場所とか、それぐらいがあれば十分すぎる。

来年の春も、そのまだ先も、世界が平和でありますように。

わたしたちも平穏で暖かな春を喜べますように。

《   了   》

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