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吾 輩 は 狐 で あ る

麓川 智之

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吾輩は狐である。名前はあるが真名ではない。

名付けたのは現在の主人である。吾輩、狐は狐でも其処いらの狐とは違い白狐である。頭の先から尻尾まで雪を戴いたように真白である。だからといってどこぞの車屋の黒猫のような安直な名前を付けられたのでは堪らぬ。その点、吾輩自慢の尻尾を薄の穂に見立てた名前は悪くない。真名ではないが、この名で呼ばれた場合は尻尾のひとつも振りつつ愛想してやるに吝かでない。

吾輩が主人に拾われた――果たしてあの状況を以って拾われたとするのが正しいのかどうかは見解によって論を異にする物なので一先ず棚に預けておくことにするが、兎に角吾輩が主人の元で暮すようになったの半年ほど前からのことである。それ以前は人間に拘うのは面倒だとばかりに、前人未到とは言いかねるが滅多に人など見かけぬ山中に引っ込み其の日暮しをしておった。近くに人家はあれど人家に人はなし。とどのつまりは空家である。雨天の折りなど木の洞藪中に身を寄せるより、ちょいと軒下縁の下を拝借する方が快適であることを承知しておったから、群々と群りたる暗雲に一雨来るなと察した吾輩は、ある日人家に上がり込んでおった。なあに空家だ遠慮することはない。我ら狐族の不得手とする犬畜生も飼い人不在の家中には居らぬものだ。畳の上に仰向けに、四肢を広げて寝転がり臍を晒しておったところで、恐ろしきものは皆無である。人間の子らは臍を盗られるだ何だと滅多矢鱈に雷公叩く太鼓の音と閃きを恐れるが、吾輩は白狐である。稲荷権現の神使である。

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賢い諸兄はガラガラドンと威勢の良いそれが稲妻などと呼ばれていることから察するだろうが、上役の方で話がついているのであいるのである。何せ妻だ。かかあ天下とか言って妻に頭の上がらぬ場合もあろうが、雷風情に不埒な真似ができようか。百年分がまとめて降ろうとも吾輩の臍は無事なのだ。とはいえ毛並みの良い吾輩のこと。腹も露に横たわるようなだらしの無い格好などするはずもなく、身体を丸め枕代わりの己が尻尾に鼻面を突っ込み、千変万化のイマジネイションを喚起するべく目蓋を閉ざしておった。嗚呼、そのときにした千に一つ万に一つの油断が今の境遇に繋がるとは。

かつて吾輩は一個の野生であった。生まれ出でてより如何ほど経ったかは頓と見当がつかぬが、不恰好な首輪に繋がれること一度たりともあらず。首輪に付たる鈴の音は快しといえども身動ぎする都度鳴られては、鼠の姦計に屈した猫の故事に曰くが如く日々の糧を得ること能わず。更には吾輩を獲って喰らおうと狙う狐族万年の天敵から身を隠す際にも、チリリと五月蝿く邪魔立てされては無事切り抜けられる訳がない。左様、食物連鎖の最上位にあらぬ吾輩は、身を伏して眠れど耳だけはピンと立て、不審な気配を感じ取らばいつでも走り逃げることができるよう緊急の事態に備えていたのである。それが野生というものであり、出来ぬのならば南無阿弥陀仏、行き着く先は死あるのみ。かような心掛けで日々暮らしておった吾輩が、よもや後足二本でヨタヨタと歩く鈍重な人間風情に捕らわれようとは思いだにもしなかった。

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あっと思った時にはすでに遅し。むんずと尻尾を握られて、逆さに吊られ絶体絶命。このまま生皮剥がれたり鍋に放り込まれたりするのか知らん。

並みの狐ならばここで見苦しく藻掻きに藻掻き抜くところだが、吾輩は稲荷大権現の眷属たる白狐である。頭脳明晰冷静沈着なのである。吊り下げられた高さが少々低いことに気が付いた。吾輩も狐としては相当に小さい方なのだが、その人間も吾輩が見知り基準と考える人間に比べると相当に小さい。恐らくは子供であろう。然しながら侮るべからず。邪気なく惨い仕打ちをしてのける子供の方が性質は悪辣というものだ。また加減というものを知らないことにも吾輩まことに閉口する。

「あったかい……」

ほら見給えよ。そのようなことを呟きつつ、両の腕に力を込めてギュウと吾輩を絞め殺しにかかった。黒やら銀やら色取々の我が眷属の皮を剥ぎ取って襟巻き外套など拵える人間どものすることだ。そうであろうに決まっている。

季節はとうに初夏を周り太陽などはカッと猛威を振るっておる。犬畜生は口から舌をだらしなくはみ出させハァハァと息を荒げていたりもする。そんな時分に襟巻き外套はないだろうとお思いだろうが、されど万物の霊長を自負して止まぬ人間は我らと違い毛に乏しい。かばかりか偉くなるほど減るものらしい。随分と長いこと近づいておらぬが人里に降りて見るがいい。吾輩の記憶によれば最も偉げにしておったのは頭の頂点まで禿げ上がったご老体であった。

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自らの頭に似たる木魚めをポクポク叩いておった坊主らもペコペコ頭を下げられておった。

反対に黒髪を長くした女童などご母堂に怒鳴られ身を縮めておったりもした。吾輩など白き毛の豊かさ色艶を常々自慢に思っておるのだが、偉くなるにはそれを捨てねばならぬとは何とも考えものである。

閑話休題、かように毛の無い人間だけに寒さを感じておるのだろうか。なるほど、折りよりの雨に気温は下がっているようだ。そのまま人の子はぺたりと膝と尻を畳に付けると、吾輩を胸に掻き抱いたまま畳にごろりと転がった。吾輩は湯たんぽか抱き枕代わりか。今すぐ取って食われるわけでもなさそうなので、身体から力を抜いて成りゆきに身を任せることにする。

それが吾輩と主人との出会いであった――

「――さん?」
「は、はいっ!?」

名前を呼ばれた私は、書きかけのテキストファイルを最小化でモニター上から追い出しつつ声の出所へと頭を巡らせた。そちらにあるのは大ぶりの古風で豪華な執務机。山と積まれた書類がとても雰囲気を出している。可能なものは片っ端から電子ファイル化しているものの、それでもハードコピーは山また山と積み上げられ、ちんまり座った少女の姿を余計に小さく見せていた。

「お茶ですか? それとも書類に何か不備でもございましたか?」

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「いえいえ、書類には何の問題もありませんし、お茶だってこれ以上飲んだらお腹がたぷたぷになってしまいますから結構です」

ひょいと機敏な動作でワーキングチェアから腰を浮かせた彼女こそが私の雇い主であり、世界でも有数の資本力を誇る若杉グループの会長にあらせられる若杉葛さま。御歳わずか十歳ジャスト。

椅子から降りて立ち上がっても、頭の位置が大して変わらないほどコンパクトな身体からもうかがえるように、法的にはバリバリの未成年。いかに若杉の一切合財を相続する権利を持とうとも、後見人や代理人などを立てて面倒ごとの一切合財を押し付けるのが普通だろう。

だがしかし葛さまは天才だったのだ。それもそんじょそこいらの天才とは違う大天才。超天才。あえて訊いたことはないけれど、アインシュタインの相対性理論がどうたらとか、フェルマーの最終定理がうんたらとか、カンペなしで語り倒してくれるに違いない。もちろん法的な問題をクリアする目的で、後見人代理人のひとりやふたり表向きにはいるのだけれど、大方の仕事は葛さま自らぱぱっと片付けてしまう。そんなわけである意味閑職なのだがそれでも彼らは高給取り。見晴らしの良い窓際席とは羨ましい――などという益体もない思考は電磁パルスの速さで脳内を素通りさせ、私は計算された人当たりのいい笑顔を作って問い掛けた。

「ええと、それでは一体どのような?」

私だってかの若杉グループの会長付き秘書という花形職に就いているのだから、貰っている年俸や随時加わる手当ての額は、実のところ大したものだ。けれども葛さまの鞄持ちはとてもとても大変なので、いくら金銭を積まれたところで天秤が釣り合うかどうかは甚だ疑問である。

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世の中、お金で買えないものだって色々とあるのだ。

葛様は不世出の天才児。その何とかと紙一重の頭脳が生み出す常人とは少々ズレた、常識的に判断すれば不可能だとかするだけムダだという計画に付き合わされるこちらの身にもなってほしい。

計画頓挫でリタイア落ちならまだしも、財力と権力にものをいわせて強引に事を為してしまうのだから、こちらは引っ掻き回され通しだ。例え分刻み――いいや、三十秒刻みの超過密スケジュールだとしても、いわゆる秘書らしい秘書の仕事だけならば、心は幾許か楽だったに違いない。

おっと、またも益体のないことを考えてしまった。まあ返事待ちの間だから、瞬きほどの間ぼーっとしていたところで何ら支障はないだろう。冷静に、何事もなかったように落ち着いて。

「……葛さま?」

名前を呼んで促すと、彼女はデスクを回り込みつつこちらへ向かいこう言った。事も無げに言ってのけた。

「えーとですね、こちらの仕事が片付いてしまったものですから。そちらで整理がついているものがあれば、回していただきたいと思いまして」
「ええっ!? もう終っちゃったんですかっ!?」
「はいはい、終りましたとも。あなたが関連資料の添付など、大変宜しくまとめておいて下さったので、思ったより楽に片付きました。毎日毎日ご苦労様です」
「はあ……ありがとうございます」
「それで、予定よりも随分早く終ってしまったんですけど、こちらの都合でせっつくのもどうかと思いましてね、ちょっとヒマを潰してたんですよ」
「はあ……」

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そう言えば少し前から、紙をペラペラめくる音に代わって、打鍵の軽く乾いた音が聞こえていたような。私自身がキーボードを叩いていたのであまり気にならなかったが、思うにその時点で葛さまは仕事を終えていたのだ。

「それで、ネットでも見ていらっしゃったんですか?」
「まあネットワークを介したデータを見ていたと言えばそうですから、それで正解と言えば正解なんですが……」

電脳世界に溢れる珍品珍事件のいずれかに触発されて、またも何やら無理難題を提案してきやしないかと警戒心半ば、実施に備えての覚悟半ばの私に対して、葛さまは珍しくちょっと言い淀みつつ、

「もう少しセキュリティを強化しておいた方がいいかもしれませんね、ここ」

なんておっしゃられた。

「……はい?」
「わたくしコンピューターに関しては素人同然なんですけど、ちょいちょいと弄っていたら、読めちゃったんですよ。『吾輩は狐である』」
「はあああっ!?」

それは私が手慰みにヒマを見つけては書き足していたテキストファイルに付けられたタイトルに相違なく、先ほど葛さまに呼ばれた折りに最小化したそれそのものである。今現在もタスクバーにはそのタイトルが。だがしかし。

「ああああっ、あのっ、これはですねっ!?」

さすがにこうなっては冷静沈着など気取ってはいられない。ああまったく天才はこれだからっ。

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とはいえ就業時間中に私事にいそしんだ私の咎であるのは間違いなく、しかもそれが雇い主をネタにしたものであったりするのだから下手に動けば首も飛びかねない。

「別にいいんですよ? ノルマ以上の仕事を終えた上でのことですからあなたに大して何の不満があるでしょうか」

結局そのままフリーズしてしまった私の肩甲骨のあたり(肩には手が届かないのだ)を指先で叩いて再起動を促しつつ語りかけてきた葛さまは、

「しかしまあ何といいましょうか、奨学生として海外留学してそのまま大学へスキップ早々学士号まで習得した、天に二物も三物与えられた才色兼備のあなたにも欠けているものってあったとは。ざっと目を通させていただきましたが、パロディにしては文体の模倣は中途半端というかなってませんし、そもそもあの作品は文言一致による常軌を逸した言葉の奔流の仲に諧謔と軽い皮肉とでもいうべく――」

何だかとてもいい笑顔をしていた。本日の無聊は私をネタにすることで慰めるつもりらしい。これならば被害をこうむるのは私ひとりで済むわけで、変な行動を起こされるのに比べるとよっぽどマシなはずなのだけれど。

つと視線を宙に逸らすと、革張りのソファの上に寝そべっていた真っ白い毛並みをした子狐の円らな瞳と目があった。葛さまの飼い狐なのだが、口から先に生まれてきたかのような主人に似ず、えらく無口で無愛想な子だ。

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何とか主人の気をそらしてもらえないものかとの気持ちを眼差しにこめてみたのだが、彼は身体を丸めると、我関せずとばかりに目をつぶった。

《   了   》

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