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第 九 章  贄 の 血

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ご注意!
本章以降には10月21日発売予定のゲームストーリーのネタバレの要素が多く含まれておりますので、ご了承いただいた上でお読みいただきますようお願いいたします。

「ともかく、まずはここから出なくちゃ」

そう言ってわたしは立ち上がり、葛ちゃんの手を引っ張って立たせた。いつまでも井戸の底にいて帰ってこないとなると、サクヤさんだって心配するだろう。

そう思いながら井戸に絡みつく蔦を手にとり、わたしたちは暗い淵からの脱出を開始した。

井戸から出るのはさほど難しいことではなかった。元々体重の軽い葛ちゃんとわたしだったからだろう。それに蔦の強度も高く、わたしたちが登っている間も切れることがなかったからだ。

とは言え、もやしっ子のわたしにとってはいささか疲れる一仕事だ。先に登りきった葛ちゃんに手を貸してもらい、ようやく井戸の口に這い出たそのとき、どこからか鈴の音が聞こえてきた。

鈴――。

群雲が天上の月に差し掛かり、月明かりが陰る。

鈴? お屋敷には吊ったけれど、どうしてこんな場所で?

そう思いながら、わたしは葛ちゃんを急いで抱きしめ、自分が今這い出てきた井戸の淵を見つめた。

「ごきげんよう。贄の血をひく羽藤の末裔」

月が隠れたあとの夜闇を伝い、どこからか聞こえてきた女の子の声が耳朶を打つ。それはとても可愛らしい声だったが、急に耳元で囁かれたようにも聞こえ、腕や背中の産毛が瞬時に逆立った。

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「ふふふふ」

鈴を転がしたような、少女の笑い声が続き、それを継いで本物の鈴の音が響く。

そういえば、鈴は鏡と並んで重要な祭器なのだと歴史の授業で習った記憶が蘇る。邪馬台国の卑弥呼という巫女が神格化するのを助ける道具でもあったらしい。

鈴――再び鈴の音が聞こえた。この鈴の音は一体どこから聞こえてくるのだろう。

音の出所を辿った視線の先は、井戸の傍の地面を覆う闇だった。その只中に何かがいる。直感がそう訴えてくる。

不吉な予感は的中し、次の瞬間、暗がりから燐光を纏った深海魚のような青白くも艶かしいものが現れた。

「ふふふふ」

滑らかな曲線を描くそれは、太股の付け根近くまでを剥き出しにした人の脚だった。細いにも拘らず柔らかそうなその肉付きは、笑い声に違わない少女のものだった。

たなびく雲の尾を透かして注ぐ月光を受け、右足首に巻かれた金の小物が輝く。続けて赤い鼻緒の草履が地を離れ、再び下に降りたとき、足首に巻かれたその小物が鳴った。

鈴の音はこの子が近づく音だったのか。

雲が月の前から流れ去ると共に、蒼い夜の空の下で少女の姿が露わになった。

「ふふふふふっ」

年の頃はわたしと葛ちゃんの間ぐらいだろうか。真っ白い脚を惜しげもなくさらす形になった短い丈の振り袖は、黒赤二色に染め分けられている。浴衣でも普通の和服でもないそれは、普通に見る着物の類とはあまりにかけ離れている。

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しかも、その袖合わせは死者を表す左前になっていた。

「誰ですか?」

そう言いながら、葛ちゃんが警戒心を剥き出しにして身構える。

どうやらわたしの目だけに見える幻覚ではないらしい。

「ノゾミ」

驕慢とも感じられる笑みを浮かべ、彼女は高らかに鈴の声を響かせる。

一声で名乗った彼女は足首の鈴を響かせ、わたしたちの方へ一歩跳ねた。

「私はあなたを迎えにきたのよ」

ノゾミと名乗った少女はわたしを見つめながらそう告げる。

「わたしを迎えに?」
「そう。あなたはあの女、贄の血を引く家の子だから。そうでしょう、ミカゲ?」

彼女は僅かに首を傾げ、背後の暗闇に問いかける。

「はい……姉さま」

少女が少しも動いていないのに再び鈴の音が響いたかと思うと、その背後からすっと影がすべり出た。

赤と黒との二色の振り袖。左足首には金の鈴。そして赤い瞳と、色素の薄い毛先が少し外向きにはねたような髪。

最初の少女とまったく瓜二つの、もう一人の少女だった。

ミカゲと呼ばれた二人目はノゾミの傍に並ぶ。並んだ二人は鏡写しのようにそっくりだった。ただし、ミカゲの表情は驕慢な雰囲気のノゾミとは異なり、気弱な表情を浮かべている。

双子? そう思った矢先、どうしてかひどく頭が痛んだ。

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ノゾミが口の端を曲げ、とても少女とは思えない艶かしい笑みを浮かべる。

「さあ、私たちと行きましょう」
「待ってよ、わたし全然わからないよ。あなたたちは一体誰? 行くって一体どこに?」
「あら」

わたしの問いを受け、ノゾミは意外だとでも言うように目を円くした。

「あなた、本当に忘れてしまったのね?」

忘れたということは、わたしは以前この二人が誰なのかを知っていたということなのだろうか。それに……

「……贄の血?」

どくん。

その言葉を口にした途端、わたしの鼓動は急激に高鳴った。

間髪置かず視界が一瞬深紅に染まり痛みが眼底に押し寄せる。

「痛っ!」
「桂おねーさん!」

眼の奥の痛みに脚を縺れさせ、傾いだわたしの身体を葛ちゃんが支える。

「大丈夫、平気だから……」

まただ。前にもあったこの痛み、この現象は一体何なのか?

それに、何かが脳裏に引っ掛かっている。ノゾミの言葉が本当かどうかは判らないが、確かにわたしの記憶の底に何かが隠れて引っ掛かっている。この引っ掛かりさえなければ、少しはすっきりするというのに。

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「あははははははっ」

目の前の双子の存在が、居着いてしまった眼の痛みに拍車をかける。

眩暈がするようなこの痛みは、この子たちの瞳の赤のせいかもしれない。

「ふふっ、知らないのね」
「本当に何にも知らないのね」

二人の少女はそう言いながらお互いの顔を見合わせる。

「あなたは特別な血をひいているのよ」
「それが贄の血」
「贄の血……」

わたしは思わず反芻する。

「あらゆる呪術で使われているように、血そのものに特別な力があるのは知っていて?」
「力の『ち』であり命の『ち』」
「形ある肉の一部でありながら、形のない魂の一部でもあるの」
「すなわち両義を生む太極」
「万物の根源」
「トコタチ、サツチ、カグツチ、オロチ。チは神霊そのものを表す言霊」
「だから人は血を捧げるのよ」
「贄の血を」

二人はそこで一息ついた。

贄の血。つまりは生贄の血ということか。わたしはそう理解した。

だが、生贄の血だなんて。今時そんな迷信みたいなことがあるとは思えなかったし、それ以前に自分の血を生贄の血だと言われても、にわかには信じられない。

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だが、それならわたしの目の前にいるこの子たちは一体何なのか。それに、鬼切部と名乗ったあの千羽さんは。

現実を侵食してくる幻想のような言葉の羅列にわたしは圧倒され、思わずよろめいた。葛ちゃんが再び立つのを支えてくれる。

だが、現実が崩壊していくようなショックは拭えない。

わたしの様子を見て、ノゾミとミカゲは満足したように再び話し始める。

「血には貴賎があるのよ。あなたの血はね、とても純粋で尊い」
「やしおりの酒が、主さまの遠祖を酔い潰してしまったように」
「とても濃くて強いのよ」
「八十、八百、八千の人の血を、飲み干してもなお吊り合わないほど」
「神でも鬼でも何でもいいわ。あらゆる人でないモノは、あなたの血を飲むことで、より大きな存在になることができるの」
「より大きな……?」
「そう。強い《力》を手に入れられるの」
「だからとても特別なの」
「だからみんなが欲しがるのよ」
「そして奪い合いになる」
「この土地には強い封印があるから、ここにいる限り、外のあやかしに嗅ぎつけられることはないけれど」
「だから血が絶えず今まで残っているけれど」
「今も昔も贄の血の持ち主は珍しいのよ。誰もがあなたのように、血の匂いを隠せるわけではないから」

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「もし、隠せなかったら……」

思わず疑問が口をついて出る。

「ふふっ、わかるでしょう? 隠れないと」
「逃げないと」
「鬼に捕まったら、食べられてしまうのよ?」
「うふふふふふふ」

可愛らしい唇の端が、酷薄そうに吊り上がる。

闇に瞬く赤光を宿した瞳は、人ではないものの瞳だった。

この二人が……鬼なのか?

先刻の千羽さんの言葉を反芻しつつ、わたしは直感でそれを理解した。

そもそも葛ちゃんが千羽さんと鉢合わせしたのは、この辺りに鬼の気配が漂っていたからだと彼女は言っていた。

だから、やっぱり、この子たちが鬼なのだろう。

だとしたら、名指しで狙われているわたしは、彼女たちの言葉通りに隠れなければ、逃げなければいけない。そうしないと、彼女たちの言う贄の血とやらを飲まれてしまうことになる。

「………」

駄目だ。

自分でも気付かないうちに、わたしの足は二匹の鬼の赤い眼光に射貫かれて竦んでいた。石のように固まってしまい、後退りすることもできない。これでは逃げることなんて無理だろう。

だけど、葛ちゃんだけでも逃がしてあげなければ。

狙われているのがわたしなら、葛ちゃんが逃げられる可能性は十分にあるはずだ。わたしが血を吸われている間に、鬼を切る役目という千羽さんのもとに逃げ込めれば安心に違いない。共倒れになるくらいなら、葛ちゃんだけでも逃げて欲しい。

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千羽さんがこの場に来てくれればわたしも助かって万々歳なのだが、さっきここまで滅茶苦茶に走って来たのだから、それを期待するのは甘いだろう。

わたしは決心して、叫ぶ。

「葛ちゃん、逃げて!」

だが意に反して、葛ちゃんはまったく動かなかった。

「嫌です! ひとりになるのは駄目だって言ったのは桂おねーさんですよ!」

そう言うと、わたしの返事を遮るように葛ちゃんは一歩前に出て、自らの存在を二匹の鬼たちに見せつける。

「葛ちゃん?」

どうしてと問う表情に、葛ちゃんはきっぱりとした瞳で応じる。

「だいたいですね、桂おねーさん。わたしは鬼切り頭を継ぐ身なんですよ。一般人のおねーさんを置いて、わたしが逃げてどうしますか」

たとえ鬼を切ることを生業としている人たちの元締めみたいなものだとしても、その本人に鬼を排除する力があるとは限らない。しかも葛ちゃんは鬼切り頭である若杉の家が嫌いで仕方がなくて、ここに来ているのだ。

「でも……」

わたしは反論を試みたが、それでも葛ちゃんは逃げなかった。そればかりか、逃げずにわたしを庇うように更に前に出る。

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「あら、あなたが鬼切り頭?」
「まだ内定程度ですけどね」

ノゾミは目を細めて葛ちゃんの頭の先から足先までを視線で測り、身構える。

「たいしたものね。その若さで役行者と同等の《力》を持っているというの?」

役行者って?などと訊いている場合ではなかったが、それが鬼を警戒させる力を持った存在だということくらいは解った。

爪を隠すことを覚えた鷹の子は、その力を隠しているだけで、双子の鬼を簡単に追い返してくれるのかもしれない。それならば、わたしを制して前に出たのも納得だし、この状況でも安心できる。

「は? わたし自身には何の力もありませんけど」

葛ちゃんの返した応えは、膨らみかけた希望をしぼませてくれるものだった。

この状況でそんなことを言う利点はないはずだが、そう言うことによって鬼たちを油断させようという魂胆があるのだろうか? それとも単に本音が漏れてしまっただけなのか。

葛ちゃんの発言の真意は判らなかったが、そう思ったのはわたしだけではなかったらしい。彼女の言葉を聞いたノゾミも目をいぶかしげに細め、葛ちゃんの足元に視線を落とす。

「だけどそいつを従えているということは……」

そいつ?  わたしは自分を護るように立っている葛ちゃんの足元を見た。

「あっ!」

そこには月明かりの青に染まった、無垢の白毛があった。

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尾花だった。

白狐は神様の使いと言われることもあるが、尾花は本当にそうなのかもしれない。

「尾花を恐れているみたいですね」
「そうみたい。昨日も赤い蛇をやっつけてくれたけど……葛ちゃん、鬼切り頭の内定者として何かそういうこと知らない?」
「一番畏れられている白狐といえば、白面金毛九尾の大妖狐ですが…って、尾花が同じなのは顔だけですね」
「ってことは、お稲荷さんかな?」。
「とりあえず何だか判りませんが、尾花に任せましょう」
「うん」

強い犬は吠えないというが、尾花も吠えずに静かに佇んでいる。

しかしその背中の毛は逆立ち、鋭い眼は双子の鬼を睨みつけていた。

夏の夜気より高い温度を肌が感じたその直後、汗ばんだ葛ちゃんの背中がわたしの胸に触れた。数秒をかけて葛ちゃんの背中で胸が潰され、そのまま彼女に押されるようにわたしも少しずつ背後に下がる。

矢面に立った尾花がノゾミとミカゲのふたりを釘付けにしてくれたおかげで、鬼たちの注意はわたしたちから逸れている。逃げるのなら今のうちだろう。

しかし今の状態は一触即発の睨み合いで、危うい均衡の上に成り立っていた。もしここで手を打ち鳴らしたら、ノゾミたちも尾花も弾丸より早く飛び出すだろう。少しの刺激が成り行きを大きく左右する。

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わたしたちはすでに薄氷を踏んでいるのだから、下手に動くわけにはいかない。睨み合いの構図通りに両者の力が拮抗していたとしても、たった一匹の尾花に対して向こうは双子なのだ。一人が尾花の相手をしている間に、もう一人がこちらに来るに違いない。そしてわたしたちは敵を討ち取る牙や爪どころか身を守る毛皮さえ持っていない、弱い生き物なのだ。

だからわたしと葛ちゃんは、靴底を地面にこすりつけるようにして、少しずつ鬼たちとの間に距離を取った―"だるまさんが転んだ"のように。

鬼がこちらの動きに気付かないよう慎重に、慎重に逃げる機会を伺う。

そのとき気をつけていたにも係わらず、わたしは地面の小枝を踏んでしまった。枝の折れる乾いた音が、鬼たちの視線をわたしたちに向けさせる。

「ミカゲ、足止めを」
「はい、姉さま」

わたしたちの逃走を察知したノゾミがミカゲに尾花の足止めを任せ、その姿を幻のように霞ませる。

ぞわっ。

背中の産毛が一斉に逆立つ。

そのとき尾花が地面を蹴り背後にいたわたしたちの方へ跳んだ。

速すぎて目では追えなかったが、輝く瞳が光の軌跡となって夜の闇に赤い線を引く。その線の最先端で光が火花を散らした。

「っ!?」

肩に飛び乗った尾花の尻尾に剥き出しの襟首を撫でられ、ノゾミが悲鳴を飲み込み、棒立ちになる。

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「このっ、何をっ!」

払いのけようとする手を素早い動きでかわしながら、尾花はかっと開いた口から覗く牙をつきたてようとする。

ノゾミが掌を突き出して反撃する。同時に全身から立ち昇った赤い霧のような光が集束し、赤い蛇となって尾花へと伸びる。

しかし尾花はノゾミを蹴り、跳んだ勢いのままに赤い蛇に爪の一撃を加えた。さらにその反動で高く跳びあがり、わたしたちとノゾミたちの真ん中に着地する。

「――――!!」

思わず感嘆の息が漏れる。

それは目にも止まらぬ、流星のような身のこなしだった。ノゾミたちが警戒するのも納得がいく。尾花の動きは普通の子狐の域を大きく超えた、それほどまでに凄まじい速度だった。

「くすくすくす」

その様子をじっと見ていたミカゲが、気弱そうな表情を一変させ、嬉しそうに笑みを漏らした。

彼女は、弱っているようには見えるがまだ十分に形を成している蛇を、用済みとばかりに腕の一振りで霧に変えてしまう。そして姉に顔を向けた。

「姉さま、どうやら封じは解かれていません」
「あら、そうなの。それなら何も心配ないわね。役行者の封じさえ解かれなければ」
「呪の根源たる言霊を封じられていれば……」
「主さまの向こうを張る恐ろしい鬼神と言えども、ただの狐も同然ではなくて?」

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「はい」

尾花は普通の子狐ではない。それはわたしも納得している。だけど、彼女たちの言葉からすると、今の尾花の能力は野生を凌駕する動きではないらしい。

言霊――それは言葉に宿る摩訶不思議な霊力だと本で読んだことがある。その言霊を尾花は封じられているらしい。

確かに、そういえばわたしは尾花が鳴き声を発するのを一度たりとも聞いたことがない。尾花の本来の姿が言霊使いの鬼の一種だとしたら、わたしたちの言葉を理解していて当然だ。だが、わたしたちの言葉に反応するように尾花が鳴いたことはない。

言霊、それが尾花の本当の《力》。しかし、それが使えないということは……。

「それならあれは、任せていいわね?」
「はい」

わたしの思考を破り、ノゾミがミカゲに告げる。そのまま彼女はニヤリと笑うと、鈴の音と共に姿を影の中に消した。

どこへ消えたの? わたしは周囲を見回したが、鬼の片割れの姿は見えない。唯一、鈴の音の残響が頭の中で幾重にも重なり、波を重ね、高さを増し、頭痛さえ伴う警告音となった。

ここは危ない。ここに居てはいけない。躊躇している場合ではない。逃げよう。

ノゾミがどこに消えたのかは判らないが、逃げるならミカゲひとりしかいない今がチャンスだ。とにかく全力で走って、鬼を切りに来たと言う千羽さんのところへ逃げよう。

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ここに来たときのように道を気にせず走るなら、あっという間に姿は森に消える筈だ。回れ右をしたところで、鬼に背中を見せるのは一瞬に過ぎない。それにミカゲだけが相手なら、尾花が足止めしてくれる。

ふたたびそう決心すると、わたしは葛ちゃんの手を取り、身体を翻した。

「おねーさん!?」
「今よ、葛ちゃん。走って!!」

わたしは背中にかかる声に返事をする間も惜しんで走り始めた。

生命が賭かっているだけあって、わたしにしては悪くないスタートダッシュだ。

急げ、急げ、急げ、急げ。

次第に森が迫ってくる。もう少し、あと数歩だ。

しかし、もう少しで森の中に飛び込めるという場所で、わたしの身体全体は何かに引っ掛かった。

「かはっ!」

全速力の勢いが、そのまま撥ね返ってくる。わたしはそのまま停止する。

「桂おねーさん、大丈夫ですか?」
「何とか……」

ダメージはなかったが、びりっと痺れたような軽い痛みのあとに脱力感に襲われる。わたしは何にぶつかったのか確認するため辺りを見た。

「え、なにこれ?」

目の前の空間にはぶつかるようなものは何もない。何もない場所で、わたしはもたれるように身体を前に預けている。

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目を凝らすと、それが見えた。映画などでよく見る、赤外線の防犯装置のような赤い光の線。それが蜘蛛の巣のように木々の間に張り巡らされていた。

逃げ道は赤い蛛糸で閉ざされ、わたしと葛ちゃんの身体はその糸に捕らわれていた。

「罠?」
「その通り」

声と共に耳元で鈴が鳴った。

「くすっ……ふふふ」

ノゾミが獲物を捕らえる蜘蛛のように姿を現す。

わたしがこちらに逃げることを見通して、網を張って待ち構えていたのだ。

わたしは自分の迂闊さを呪ったが、身体はぴくりとも身動きできなかった。

鈴の音を響かせながら、白い手が伸びてくる。

糸に絡みついたままのわたしの手足は脱力したままで、意に従おうとしない。

細くなよやかに伸びた指先が、首筋に触れた。

「ひっ!」

指の冷たさに身体を竦ませたそのとき、尾花が地面を蹴って跳んできた。

「!!」
「姉さま!」

ミカゲの声に赤い瞳がわたしから逸れ、繊手が虚空に伸ばされる。

次の刹那、その手が尾花を捕らえていた。

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結界を張った面を背にして戦えば、縦横無尽な尾花でも攻撃できる方向は限られる。そして、只の素早い動き程度ならノゾミにとってそれほど厄介ではないのだろう。尾花が只の狐ではない妖狐なら、ノゾミも人に在らざる鬼なのだから。

「葛ちゃん! 尾花ちゃんが!」

白い手が尾花の首をがっちりとつかんでいた。

苦しくないはずがない。尾花は四肢をばたばたと動かし、身体を捻り、ノゾミの手に咬みつこうともがく。

けれど首をつかまれている以上、打ち鳴らす牙は敵に届かない。それでも尾花は抵抗した。牙だけではない、他の武器を用いて。

「くっ」

尾花の爪が、首をつかむノゾミの腕を引っかいて赤い線を作った。

平行に走った数本の赤い線は見る間に立体的に高さを増し、その限界まで達すると重力にしたがって液体が地面にこぼれ、赤い面となった。

彼女らの身体は人を超えたものだが、血は流れているらしい。

見るからに痛そうな、けれど致命傷には成り得ない、ささやかな抵抗の爪痕。

それを見てノゾミは眉をひそめたが、不快を露わにしただけで、手を離したりはしなかった。むしろ反対に、指を万力のように尾花の喉元深くに食い込ませていく。

「ッ!!」

声にならない空気を口から漏らし、尾花が吐血した。その血が間近にあったノゾミの口元に飛び散る。

「ふふっ」

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ピンク色の舌が唇の間から伸びて、尾花の血を舐め取る。

「うろちょろしないで、目障りだから。私は獣の血を飲む趣味はなくてよ」

そう言いつつノゾミは妖しく濡れた瞳を満足げに細め、優しげにも見える笑みとは正反対に、指を喉深くに一気に食い込ませた。

じたばたと暴れていた尾花の身体がびくりと大きく震えた。

「大人しくしていてもらえるかしら」

ノゾミが更に掌全体を握り締めると同時に、ぼきりと嫌な音が響く。

「え……」

その様子を黙って見ていた葛ちゃんとわたしは絶句した。

「ふふふっ」

笑いながらノゾミが、手にしていた物を投げ捨てる。

どさっ、と鈍い音をたててそれは草むらに転がった。

それは、すでにただの物体になっていた。二度と動くことのない魂の抜け殻。生きることをやめた生き物は物になってしまう。生命の尊厳の欠片を残していても、やはりそれは物体の塊でしかなかった。普段わたしたちの身の回りにある木工製品と変わりない有機物と同じだった。

地面に打ち捨てられた尾花の亡骸は微動だにしなかった。そんな酷い状況のなか、わたしは変に冷静になった頭で認識した。尾花は、事切れたのだと。

「あははははははっ」

無邪気なようで、それでいて残酷極まりない笑い声が木霊する。

「あ……そんな……っ」

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葛ちゃんが悲痛な声を漏らす。

「尾花っ!?」

大切な人がいなくなってしまう。それはとても悲しいことだ。冷たい海に放り投げられて魂が凍りつくような気持ちになる。尾花の死を前にわたしが冷静でいられたのは、情は移っていてもまだ数日の付き合いしかないからだ。

だけど、葛ちゃんにとっては?

家の事情で人間不信になった葛ちゃんにとって、尾花だけが心を許せる旅の道連れであり家出以来の苦楽を共にした間柄なのだ。

それなのに尾花は死んでしまった。よりによって葛ちゃんの目の前で。鬼の手で縊り殺されて。これほどまでに残酷な別れがあるだろうか。

亡骸を前に葛ちゃんの瞳から涙がこぼれ、甲高い声が夜の静寂を破った。

「尾花ぁ~~~~~~っ!!」

その瞬間、葛ちゃんを縛めていた蜘蛛の巣がちぎれ飛んだ。

呪縛を破らせたのは感情の爆発か、鬼切り頭として秘めた力の発露だったのか。蜘蛛の巣の綻びは瞬く間に葛ちゃんを中心として放射状に広がり、わたしを捕らえていた赤い糸もちぎれ飛んで霧散した。

戒めを失ったわたしは、その場に崩れ落ちる。

「あら?」

ノゾミが意外そうな顔で興味を示したのは、わたしと同じように結界に囚われていた葛ちゃんが、よもや動くとは思っていなかったからだろう。

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葛ちゃんは力の抜けた足取りで横たわる尾花に近づくと、その傍らに跪いた。

「ひっ……うえぇ……おばなぁ……」

小さな顔は涙と鼻水でぐしょぐしょだった。その手が尾花の身体をゆする。いつものように起きて相手をして欲しいと、力なく垂れた尻尾を引っ張る。

けれど、もう尾花は動かない。

葛ちゃんの両頬をつたう雫は顎で交わり、尾花の口元に滴り落ちる。

果たしてそれが生命の呼び水だったのだろうか、尾花の耳と鼻先が、わずかに震えた。

「あ……」

その様子を見ていたノゾミは、「しつこい」とばかりに眉根を寄せて身構える。

尾花が目覚めて動き出したら、赤い蛇のような力でとどめを刺そうとしているのだろう。きっとその一撃は、尾花を抱き上げた葛ちゃんをも巻き込んでしまう。

それだけは何としても止めなければいけない、と必死で立ち上がろうとするが、わたしの足腰には力が入らなかった。立ち上がらなければという意志を、両脚は遂行しようとしない。

早くしなければ、急がなければ、葛ちゃんまで尾花と同じことになってしまう。

わたしは焦った。

しかし、その心配は杞憂に終わった。

尾花は言霊を封じられた口蓋をぱくぱくと動かし、だが最期まで無音のまま口を閉ざして、今度こそ完全に動かなくなった。

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「ふふふふ」

その様子を見て、ノゾミがまたも笑う。

「あはははははは」

楽しそうに高笑いする彼女は幼い子供のように無邪気で、それゆえに残酷だった。だから彼女は躊躇などせず、当然のようにわたしのことも傷つけるだろう。

「ふふふっ」

上機嫌な感情を顕した笑い声がわたしの背後へと回り込む。そして、へたり込んだままのわたしの肩に、ノゾミの手が軽く乗せられた。続いて手に重みが加わったかと思うと、肩口からにゅっと顔が突き出され、わたしの顔を覗き見る。

目が合った。

血溜まりのように赤く濡れ光る瞳に、わたしの顔と月の光が映り込んでいる。黒い虹彩は人ではない何者かが潜む深淵を思わせる。

それはまさしく鬼の眼。化け物の瞳だった。

「うふふっ、ずいぶんとお預けされたけど」

ほんのりと冷たい指先が、肌に触れるか触れないかの距離を保ちながら肩からわたしの首へと滑り、汗でうなじに張り付いた髪をゆっくりかきあげる。

「もういいわよね?」
「はっ……やっ、やめ……」

無防備にさらされた首筋に吐息がかかる。

生暖かく、それでいて冷たさを感じさせる息。

背筋がぞくぞくし、身体の芯から恐怖が湧き上がった。

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「ひっ!」

尖った歯の先端が首筋に触れ、いきなり突き立てられた。

ずぶり、と牙はわたしの肌へくい込み、そのまま奥へと挿し入れられていく。

「んっ……んくっ……」

穿たれた穴から、わたしの生命が流れ出した。

「くっ……んんっ……はぅっ!!」

流れた生命はノゾミに飲み干され、彼女の内に吸収されるだろう。

耳を澄ますと、ノゾミが喉を断続的に鳴らしながら、わたしの血を飲み下していくのが判った。

気が遠くなり、痛みに耐えて結んでいた唇が開く。

「はっ……はぁっ…」

苦悶とも恍惚ともつかない声が、自分の口から漏れた  囚われたままぼんやりと視線を巡らすと、自分の首にかぶりついた鬼の様子が、葛ちゃんの虚脱した瞳に映されているのが見えた。

月光にさらされて青白く染まった葛ちゃんの顔は、顔色だけでなく表情までもなくしてしまっている。尾花と一緒に自分の魂まで欠いてしまったようにも見えた。そんな抜け殻のような葛ちゃんが、尾花の亡骸を抱いたまま不意に立ち上がった。

「ん?」

そちらに興味が向いたのかノゾミの唇が首筋から離れ、わたしはほんの少しだけ自由を取り戻す。

黙り込んだ葛ちゃんの瞳に昏い炎が渦を巻いたように見えた。わたしの血が火種になってしまったかのような、昏い眼だった。

「つ……葛ちゃん!?」

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本能的に危険を察知したわたしは、慌てて自我を取り戻した。

だが、わたしの悲鳴じみた声にも反応を示さず、奈落の底へ到る穴のような瞳を尾花の死骸へと移す葛ちゃんは微動だにしない。

わたしには追ってかける言葉もなく、ノゾミに囚われたまま、その行く末を見守ることしかできなかった。

二人の鬼もこの鬼気迫る状況に見入っている。

青白い月と六つの瞳が注視するなか、葛ちゃんは儀式のように厳かに、かつては鬼であった存在の名残を捧げ持つ。

そして、まだ温かく柔らかそうな白い腹部に顔を埋め、ノゾミと同じように歯を思い切り突き立てた。

見る間に白い毛皮が赤く染まる。

月光の下で赤い血が濡れ光る。

虚ろになった自分の身中を満たそうとするかのように、葛ちゃんはその赤い液体を飲み下した。

「ちょ、ちょっと、葛ちゃん。何やってるの!?」

わたしは叫ぶ。

尾花を亡くしたショックに錯乱してしまったのか。

しかし、それは杞憂だった。

数秒後、血をその身に取り込むにつれて、葛ちゃんの瞳の奥の炎がより赤々と輝いていく様がはっきりと見て取れた。

双子の鬼は状況を見て取り、互いに目配せをする。

「姉さま」
「そうね」

彼女たちは表情を厳しくして身構えた。

それは当然だった。

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彼女たちの言う通り、尾花が言霊使いの鬼神ならば、また血に《力》が宿るのならば、尾花の《力》はその血を飲んだ葛ちゃんに受け継がれた筈だ。

「ミカゲ」
「はい」

姉鬼に命じられた妹鬼が、身体から立ち昇らせた赤い光を解き放つと同時に、葛ちゃんが顔を上げた。その顔には先程までなかったものがあった。

血に塗れた口元に覗く、白く伸びた牙。月よりも輝く、獣の相を帯びた瞳。

それらはすでに人のものではなかった。

葛ちゃんだったものは双子の鬼を睨むと、人に在らざる動きで跳躍した。数メートルにも及ぶジャンプで頭上遥かに巡る木の枝まで達し、その枝の反動を利用して、より一層のスピードで地上へと戻ってくる。

そして舞い落ちる木の葉の中、言霊を封じられていなかった尾花ならそう鳴いたであろう鋭さで、一声高く言い放つ。

「乾!」

びりびりと空気が震えた。

声は空気のみならず、宙を舞うたくさんの木の葉を震わせた。

そんなことがありえるのか。鳴り響く音叉の歌が、対となる音叉をも歌わせるように、山中の木の葉という木の葉が一斉に震え出す。

山全体が葛ちゃんの一言に追従し、無限に思えるほどの音が重なりあい、やがて天をも揺るがす波となって、いずこからともなく強い風を吹かせた。風は雨粒混じりの風だった。月は皓々と照り輝きそれを隠す雲はない。それにもかかわらず横殴りの雨が降っていた。

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「くっ!」

人の形を成す己の像をぼかしたノゾミが、歯噛みしながら跳び退く。

不思議なことに雨風は数メートル程度の局地的なもので、彼女は自分を狙うその雨風を避けて跳んだ。

ノゾミに向かって、葛ちゃんはさらに一言を言い放つ。

「坤!」

地鳴りと共に、今度は大地が震えた。重力に反して巻き上がる砂礫が節分の豆のように、逃げる鬼へと追い討ちをかける。

「このっ!!」

追われた鬼は幾重にも張った光の幕を盾にして、やっとのことでその弾幕から身を守る。素人目にもその力の差はあまりに一方的に見えた。

「すごい……本当に神様なんだ」

乾と坤。

それはよく知られる狐の擬声語。一方で乾坤一擲という、運命を賭してのるかそるかの大勝負に挑むことを示す言葉がある。本来は易の算木に現れる、世界を表す事象。八卦のうちのふたつなのだと、物知りクラスメートのお凛さんが以前教えてくれたことを思い出す。乾と坤は、天と地を表す言葉なのだと。

「乾!」

そして葛ちゃんはその言霊で天候を変える。

「坤!」

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その言霊で大地を揺り動かす。

ただ一言を放つだけで、天地をも操る言霊使いの鬼神。その鬼神の封じられていた力を、血を介して受け継いだ葛ちゃんが振るう。

神様の力のうちのどれほどを人の身が継げるのか定かではないが、葛ちゃんとて普通の人に収まる器ではない。鬼と戦う人たちの頭目になる家系で生き残るために、天分の才を磨きつづけてきた神童なのだ。

ノゾミは邪魔者を片付けるつもりで災厄の箱を開けてしまったのだ。

「ねえ、ミカゲ。これは逃げるべきかしら?」
「はい……では姉さま?」
「そうしましょう」

さすがに姉妹だけあってそれ以上の相談も必要なく、彼女たちは瞬く間に逃げ出した。逃げ足も鬼だけあって速く、出現したときと同様に、鈴の音を響かせながら夜の闇の中に溶け込んでいく。

数秒後には二匹の少女鬼の姿は完全に消え、辺りには静寂が戻った。

助かった。

もとより腰が抜けたまま座り込んでいたわたしだったが、今度こそ完全に身体から力が抜けていく。そして、瞳を人に在らざる色に染めたままの葛ちゃんがすっとわたしの前に立った

「葛ちゃん?」

葛ちゃんは無言のままで、わたしに向かって手を伸ばしてくる。わたしを立ち上がらせようと手を差し伸べてくれたのだろうか。また、うっかりと言霊を使わないように黙っているのだろうか。

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わたしの考えは間違っていた。

今の葛ちゃんの瞳には機知の輝きが感じられない。また、そっけないようで優しい尾花のつぶらな瞳とも異なっていた。焦点の定まっていない自失状態の眼に浮かぶのは、本能の域にまで遡る原始の炎だ。おそらく、さっきの力任せな言霊の行使は防衛本能が敵を排除するためだけに行わせたものなのだろう。

本能のままに肉体と力を使った獣が求めるものは……餌だ。

そのことに思い至り、真夏の夜にもかかわらず、わたしは身震いした。

葛ちゃんは飢えている。今の葛ちゃんもまた鬼なのだから、あの子たちと同じようにわたしの血を欲しがっているのだ。

その考えを裏付けるように爪の伸びた手がわたしに伸ばされる。

指先が肩に触れた。そのまま指が肌を滑っていく。どこから血を飲むべきかと、わたしの身体を探っているようだった。指先は髪の毛、服の上を通過し、少々肉付きがいいかもしれないと普段から思っている頬の上も通り過ぎていく。

そして指は、頚動脈がある首筋に触れて動きを止めた。

そこはさっきノゾミにも傷付けられた場所だった。未だか細く流れる血が首筋にへばりついているのが自分でも判る。

意を決したのか、葛ちゃんがわたしの顎を二本の指で持ち上げ、剥き出しになった首に顔を近づけてきた。過剰なほどに敏感になった肌が、空気の動きを、近づいてくる熱の存在を感じ取る。

「んっ……」

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心臓がこれ以上にないほどに激しく脈打ち、そのせいで自己主張を増した動脈の血管を目指して葛ちゃんの唇が近づく、

「はぅ……」

うなじに熱く湿った吐息がかかる。

ノゾミに傷つけられたときとは異なる恐怖がわたしを覆ったが、その一方で諦めにも似た心境が去来した。

肌に尖ったものが触れた。すぐにそれが肌を破り、わたしの内側へ侵入してくる。

葛ちゃんの牙は少しずつ首筋の肉を抉って、奥へと食い込んでいく。

「んっ……あぁっ!」

鋭い痛みが肉体に走り、血流が迸り出た。

牙は大きな血管を傷つけたらしく、湧き溢れると言うより、噴き出すと言ってしまった方がより的を射ていた。

その勢いに負けないように、葛ちゃんは細い喉を鳴らして溢れ出るわたしの血を飲んでいく。

「仕方ないよね……」

そう、これは仕方のないことなのだ。

抵抗する気は元よりない。この血が全部欲しいなら、飲ませてあげようと思った。葛ちゃんのものになるなら、あの鬼たちの餌になるよりずっとましだ。それに、そもそも葛ちゃんがこんなになってしまった原因は、わたしにあるのだから。

だから葛ちゃんが望むのならば、全ての血を吸い尽くされても構わない。しかしそのことで唯一悔いが残るとしたら、葛ちゃんを独りにしてしまうことだ。

偉そうに知ったふりをして「ひとりは駄目だよ」なんて言っておきながら、わたしは葛ちゃんの側にいてあげられない。

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「ごめんね」

そう呟くと、首筋にあてられた唇が微かに震えた。それは葛ちゃんの返事である気がした。

幻覚だったのだろう。いつものように笑って返事をして欲しいという、わたしの希望が生んだ幻に違いないと思った。

なぜならわたしの視界は夜更けだというのに、うっすら白んでいたからだ。天国のお母さんが迎えに来てくれたせいだと思えば随分綺麗なイメージなのだが、生憎現実はそうではない。

そう言えば、すっと目の前が白くなるこの感覚は、お風呂でのぼせたときの立ちくらみに良く似ている。ふと、そんなとりとめもない考えが浮かんだ。

「はははは……」

死ぬだろうというときに、こんなことを考えている自分がおかしくて力のない笑いが漏れた。立ちくらみというよりはお迎えが近いはずで、走馬燈が見えてもおかしくないはずなのに。

ふと気付くと、わたしはいつの間にか地面に横たわっていた。

ああ、死が近いんだ。そう思うと自然に涙が溢れ出る。血を吸われても涙は出るものなんだと感じた。視界は益々白んでくる。なのに、ひどく眠い。

「……あっ」

声がした。遂に幻覚だけではなく、幻聴まで訪れたと思った。

「おねーさん?」

また声がする。閉じかけた瞼を開くと、葛ちゃんの顔が見えた。

葛ちゃんが見慣れたいつもの姿に見えるのは、きっと視界が霞んで不明瞭なところを記憶が補完しているからだ。

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「桂おねーさん?」

少し強めに揺さぶられ、白い靄が一瞬晴れた。確かに目の前に浮かぶのは鬼ではなく、いつもの葛ちゃんの顔だ。

「あれ?」

わたしは気力を振り絞って焦点をあわせるように、目を瞬かせた。そして噛まれた傷に意識を向ける。

「痛っ!」

痛みが靄を切り裂き、さっきまで白んでいた視界も意識も鮮明に晴れ渡る。葛ちゃんの顔の後ろに、満天の星空が見えた。

「桂おねーさん大丈夫ですか?」
「……葛ちゃん?」

手を伸ばして、狐の耳が消えた葛ちゃんの頭を撫でる。血の気の失せたわたしの手がすっかり冷え切っていたためかそれはとても温かだった。本当に、葛ちゃんはすっかり元の姿に戻っていた。

それで安心したせいか、わたしはうとうとし始める。

駄目だ。眠気だけが止まらない。

「ね、ちょっと寝かせて」

そう言うと、「また襲っちゃうかもですよ!?」との返答が聞こえた。

「別にいいよー」

もう大丈夫。そう確信して告げると、わたしは瞼を閉じて眠りの淵へ引きずり込まれていく。

「桂おねーさん!」

白い闇に飲み込まれて無に還っていくような感覚ではなく、馴染んだ眠りの気配だからきっと大丈夫だろう。目が覚めたらわたしは元気になっているはずだ。

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まどろみの中で触れた葛ちゃんのふわふわとした髪質の頭は、少しだけ尾花に触り心地が似ているかもしれない。

そんなことを考えながら、わたしは眠りに落ちた。

《第九章 了》

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