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第 七 章  ニ ヌ リ ヤ

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夜が明けた。

窓から差し込む太陽の眩しさで目を覚まし、わたしは体を起こした。

ぼんやりとした眼のまま、周囲を見渡してここが父の実家だと再確認する。と同時に昨晩の奇怪な出来事が脳裏に甦った。

朱い蛇。

あれは一体何だったのだろう。そして、わたしを護るように現れた和服姿の女性は誰だったのだろう。

朝日に照らされて明るくなった部屋を見回したが、大蛇がいたという痕跡はどこにも残っていなかった。あの出来事は本当に夢だったのだろうかと思いながら、布団から出て伸びをする。

部屋を出て、目を擦りながら廊下を歩き居間に入ると、サクヤさんと葛ちゃんはそこで朝食の支度をしていた。

わたしは二人に挨拶を済ませると、目覚まし代わりの歯磨きに向かう。

冷たい水で顔を洗うとさっぱりして思考も明晰にはなったが、それでも昨日の出来事が夢だったのか現実だったのか、判断がつかなかった。

身支度を終えて、居間に戻るとちゃぶ台の上にはすでに朝食の準備が済んでいた。

「いただきます」

サクヤさんと葛ちゃんとわたし、声を揃えて掌を合わせる。

三人で囲むちゃぶ台の上には、栄養調製食品と乾パンと缶詰、それからミネラルウォーターのボトルが並んでいたが、それを見てサクヤさんが溜息をついた。

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「なんともまあ、侘びしい食卓だねぇ。朝食は今日という日を生きる活力源なんだよ。栄養価はともかく心が貧しくなりそうじゃないか」
「それならお饅頭もつけようか。甘い物は心を豊かにしてくれるよ」
「朝っぱらからそんなもの食ってられるかい。あたしは塩っ辛いのが好きなんだ」

わたしの提案はサクヤさんにあっさり却下された。

「塩分の過剰摂取はまずいですよ。ヤバいですよ。ただでさえ気性の激しい人は、高血圧になりやすいそうですから」

わたしたちのやり取りを聞いていた葛ちゃんが指摘する。

「サクヤさんは大丈夫?」

わたしはサクヤさんに視線を向ける。

「あんたら人を何だと思ってるんだい。それに桂は、あたしのことより自分の心配をおし。糖分の過剰摂取の恐ろしさは、現役乙女のあんたの方が危機感たっぷりなんじゃないかい?」
「ううっ…体重計が……」
「体重計もですけど、砂糖の脱カルシウム作用が一番怖いですよう。カルシウム不足は老化への第一歩ですよ。精神が揺れやすくなりますよ。集中力や記憶力の低下に繋がりますよ」
「そうそう、確か物忘れが激しくなるんだっけ。だとしたら桂はもう手遅れか」
「えー、そんなことないよ。わたし昨日何を食べたかちゃんと憶えてるし、昨夜の夢だって、その後の変なことだってちゃんと憶えてるよ」

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「変なことですか?」
「うん、サクヤさんは、わたしが寝ぼけて見た夢だっていうんだけどね」

赤い蛇に襲われて、夢の中のあの人と尾花に助けてもらったことの顛末を、かいつまんで説明する。

「ははあ、ニヌリヤっぽい話ですねー」
「ニヌリヤってなに?」
「『古事記』に出てくる話です」
「葛ちゃんって『古事記』なんて読むの?」
「まあ、基本ですから」

基本って、本当に葛ちゃんは何者なのだろうか。わたしが葛ちゃんくらいの時は歴史の時間に『日本書記』とセットで名前が出てきた記憶しかない。

「ちなみに丹頂鶴の丹の訓読みが『に』で、朱いとかいう意味合いでね。丹で色を塗ることや塗ったもののことを丹塗って言うんだよ」
「朱いって、神社の鳥居とかサクヤさんの車とか?」
「そう。それで『や』の字は、真弓の弓と対になる矢だよ」

そこまで聞いて、丹塗矢という言葉が赤く塗られた矢ということを意味しているのだと理解できた。

「さて、それで丹塗矢の話はこうです。勢夜陀多良毘賣(セヤダタラヒメ)という見目麗しいお姫様が、いきなり貫かれてしまいます。その丹塗矢に」
「なんか、とんでもない話だね」

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「くわしく話せばもっととんでもないんですけど、それは省略しますね。爽やかな朝ですから」
「……爽やかな朝だから?」
「だからです。それで、お姫様がその矢を持って帰って床(とこ)に置くと、床に置いた矢は見目麗しい男の人に成りました。やがてふたりの間には子供が生まれるのでした。めでたし、めでたし」
「……それってめでたしなの?」

率直な疑問がわたしの口をついて出る。

「一番最初に、お姫様を見初めた神様が丹塗矢に化けたって書いてありますからね」
「神様だったの?」

だとすると最初にお姫様を貫いた矢は、刺した相手を恋に落とすキューピッドの矢のようなものなのかもしれない。

「うーん、おとぎ話の王子様に比べると、なんだか微妙な感じだなぁ。ときめかないというか、ロマン不足というか。だけど、今の話のどこが昨夜のことと関係があるの?」
「その丹塗矢の神様、三輪山の大物主という神様なんですけど、これが蛇神様なんですね」
「蛇?」
「似てませんか?」
「似てる……かもしれない」

赤い矢に化けた蛇の神様に突かれるお姫様。

赤い蛇に襲われるわたし。

「おねーさんが寝ぼけていたんじゃないんなら、ここの地元の蛇神様に見初められたのかもしれませんね」

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サクヤさんは、何かを考えているような真剣な表情で葛ちゃんの話を聞いていた。

そんなサクヤさんに葛ちゃんが話をふる。

「どうかしましたか?」
「ああ、まだ桂は嫁にはやらないよってね」

サクヤさんは一瞬不意をつかれたような表情を浮かべた後、はぐらかすようにそう答えた。

「そうだよ。それに助けに来てくれた尾花ちゃんの方が王子様っぽかったよ。わたしは尾花ちゃんがかっこいい男の子に化けてくれるなら、考えてあげてもいいかな」

そう言って尾花を撫でようとすると、ふいっとそっぽを向かれてしまった。

「あ…」

軽い冗談のつもりだったが、どうやらお気に召さなかったらしい。

その後、他愛ない話を続けた後、サクヤさんは山に撮影のために出かけていった。

葛ちゃんは補修工事といって屋敷の中をあちこちと飛びまわっていた。

一方、わたしはと言うと、居間で横になりながらぼんやりと昨日の夢のことを考えていた。

朱い蛇、夢の中に出てきた女の人、蛇を倒してくれた尾花。何の確証もないが、どうしてもただの夢だとは思えなかった。

山へ撮影に出かけたサクヤさんが戻ったのは、お昼を少し回ったくらいだった。

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「おかりなさい」
「おかえりなさいませー」

二人でサクヤさんの帰りを迎える。

「ただいま。あんたら、昼食はもう食べたのかい?」
「ううん、まだだよ。サクヤさんお弁当とか持っていかなかったから、戻ってくると思って」
「それは遅くなって悪かったね」
「別にいいよ。それより、いい写真撮れた?」
「いーや、さっぱり。やっぱり朝にちゃんとしたものを食べないと駄目だね」

サクヤさんは、まだ今朝の食事に文句があるらしい。

「そーゆーものですか? わたしはもう何日もあんな感じですけど」
「あんたはこれからが勝負だろう。そんな食生活でどうするんだい」
「駄目ですか」
「少なくとも、あたしほど大きくはなれないね」
「たはは……」

葛ちゃんはサクヤさんの上から下まで視線を移すと苦笑いを浮かべた。

葛ちゃんはもう充分賢くて、運動もできそうだ。それに今でも可愛いのに、このまま長じて抜群のスタイルまで手に入れてしまうのだろうか。

思わず自分と比べるとため息が出そうになる。

「桂?」
「なななっ、何も考えてませんよ!?」

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「じぃっ……」

二人はじっとわたしのことを見つめている。

「だから別に、何もね」
「桂おねーさん諦めましょう。世の中に平等なんて言葉は存在しないんですよ」

葛ちゃんはふっとニヒルに肩をすくめて、かぶりを振る。

「サクヤさんが規格外なんですから、比べて世を儚んだりはしないでください。おねーさんだって、大平原じゃあないんですから」
「だ、大平原って……」
「わたしはおねーさんの普通っぽいところ好きですよ。なんか安心できますし」
「そうそう、下手に出てても大変なだけだよ。出る杭は打たれやすいものだからね」
「人並み以上ということは、人とは違うということですから、何かと苦労が絶えないんですよね」
「何事も普通が一番さ。出来ることなら、あたしも十人並みになりたいよ」
「ですねー。わたしも同意しますよ」

わたしには二人の言葉は同情にしか聞こえなかった。

二人の意見に賛同できないわたしはやっぱり持たざる者であり、この中では仲間はずれらしい。

「さて、桂のせいで話がそれたけど」
「それましたねー」
「えー!? わたしのせいなの!?」
「そういうわけで、今からちゃんとした昼食を食べに行くよ。おっと、その前に風呂だね、風呂」

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「いいね、お風呂。わたしも賛成」

昨日は入れなかったから、チャンスは逃したくない。

「えーと……もしかして、町に行くんですか?」
「もしかしても何も、町まで行かなきゃ店もないじゃないか」

私たちは外出の準備を済ませると、サクヤさんの車で町へと向かった。

§

「涼しいですねー」
「ふぃー、天国気分だね」

わたしたちはエアコンの効いた旅館のロビーで、くつろいでいた。

わたしたちが旅館に来たのは、ここには立派な露天温泉があって、昼の間は宿泊客以外でも利用できるからだ。

訪れる旅行者の少なさゆえに、地元の人を収入源として取り込むために始めたサービスではないかとは、ルポライター・浅間サクヤ女史の分析だ。

「いかがでしたか。さかき旅館自慢の温泉は」
「あ、女将さん。とってもいいお湯でした。連れなんかまだ入ってるんですよ」

わたしたちはサクヤさん待ち状態だったりする。

「ところで、ここに来る途中で思ったんですけど、今日は昨日より人通りが多いですよね。何かあるんですか?」
「あら、ご存知ありませんでしたか。明後日お祭りがあるんですよ。それも今年は特別で」

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「特別なんですか?」
「お祭りを取り仕切っていたお家があったんだけど、ずいぶんと前にその人たちがいなくなってしまったのね。それで、ここのところ形ばかりのお祭りが続いていたの。迷信だと思うんだけど、それからすっかりここも寂れてしまって……」
「はぁ、ちゃんとしたお祭りができなかったせいですか?」
「迷信よ、迷信。でも商売していると験はかついでおきたいものでしょ?」

女将さんも苦労しているのだなと思った。

「それで、お祭りってどんなお祭りなんですか?」
「それなんだけどね、オハシラサマっていう神様を祭ってること以外、詳しいことはよくわかってないのよ」
「オハシラサマ?」
「大層綺麗な娘さんだったらしいよ。ちょうどお嬢さんみたいな感じだったんじゃないかな」

後ろから聞こえてきた声に振り返ると、そこには見覚えのある初老の男の人が立っていた。

「あ……駅員さん」
「こんにちは」
「こんにちは。まだ勤務時間じゃないですか?」
「越境通勤者が来る朝と夜以外は暇なんだよ。それに留守番を置いてきたから大丈夫さ。私は国際化社会の一員として、少々スペインの生活習慣を体験してみようかと思ってね」
「スペインですか?」

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「そうそう」

駅員さんはそう言って笑顔を浮かべていたが、わたしはちょっと駅が心配だった。

「そうだ、女将さん、あとで少し部屋を貸してもらうよ」
「構いませんけど、今日は変なことはしないでくださいよ」
「大丈夫、安心しなさい」

駅員さんは女将さんとの会話を終えると、わたしの方に視線を向けて徐に話し始めた。

「さて、オハシラサマのことだったね。昔むかしの経観塚には蛇の神様が住んでいてね。その神様から求婚された娘さんが、オハシラサマだって話しだったと思うよ」
「桂おねーさん、蛇神の求婚ですよ」

葛ちゃんが、そう言いながらわたしの腕をくいっと引いた。

今朝、葛ちゃんから丹塗矢の話をしてもらったばかりだった。

「気になりませんか?」
「気になる。かなり」

昨日の夜のことは、サクヤさんは寝ぼけて夢でも見たんじゃないかと言うけれど、わたしは本当にあったことだと信じている。昨夜は運良く夢の中のあの人と尾花が助けてくれたけど、もし次があった場合どうなるかはわからない。

敵を知り己を知れば百戦危うからず。聞くだけなら無料だし、もしかしたら弱点なんかも伝わっているかもしれない。

「その話、もうちょっと詳しくわかりませんか? その蛇の神様についてとか」
「さて、どうだったかな」

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しばし考え込んでいた駅員さんが、ぽんと手を打った。

「何かわかりましたか?」
「私は知らないんだけどね。詳しくわかりそうなところならあったなあと」

その答えを聞いていた女将さんが言葉を挟む。

「郷土資料館ですか?」
「そうそう。確かここにも観光者用にチラシを置いていただろう」
「そのチラシに地図も載っているから、興味があるなら行ってみるといいよ」
「でも、あそこは……」

心配顔を浮かべて言いよどむ女将さん。そんな態度を取られると、小心者のわたしは、なんだか心配になってくる。

「何かあるんですか?」

ごくりとつばを飲み込んで、おそるおそる訊ねる。

「その郷土資料館にね、泥棒が入ったそうなのよ」
「泥棒……ですか」
「一昨日の夜から昨日の朝方にかけて、だったかしら」
「展示物が一点盗まれただけだし、何も心配することはないよ」

駅員さんはわたしの不安を和らげるようにそう言った。

「そうですね。犯人だって、とっくに逃げてますから、別に危ないことはありませんよね」
「でもねぇ、最近は本当に物騒だし……」
「あ、桂おねーさん、サクヤさんが上がってきましたよ」

葛ちゃんの言葉に視線を移すと、ほんのり頬を紅潮させたサクヤさんが脱衣所から歩いてきた。

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「いやー、いい湯だったよ」
「ありがとうございます。これからもご贔屓に」
「ええ、また使わせてもらいます」
「さて、そろそろあたしの腹は限界だよ。早いところ昼を食べにいこうか」
「もうっ、サクヤさんが長湯したんだよ」
「はいはい、そうだったね」
「それじゃあ女将さんに駅員さん、いろいろとありがとうございました」

わたしたちはそう言って旅館を出ると、駅員さんから奨められた定食屋に向かった。

駅員さんが奨めてくれた定食屋で、サクヤさんはご満悦だった。

椅子の背もたれに踏ん反り返って、たっぷりとご飯を詰め込んだ剥き出しのお腹を叩く。

「やっぱり飯はこうでなくっちゃねぇ。胃の腑の奥から力がみなぎってくるよ」

確かに久しぶりの暖かいご飯は、お腹に入ったときの満足感が違った。

「葛も満足したかい?」
「しっかり食べさせてもらいました」
「さて、せっかく町まで出てきたんだし、この後寄りたいところはあるかい?」
「そーですねー。おねーさん、どうしましょう」
「どうって、何が」

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「郷土資料館、行ってみます?」

わたしはしばらく考えた後、決心した。

「そうだね。やっぱり気になるし、せっかくだから行ってみようか」
「郷土資料館だって?」
「うん、ここ」

旅館の女将さんに渡された、三ツ折りのリーフレットを取り出して見せる。

「入館料は大人二百円、子供百円、三十名以上の団体客は半額。なんだい、ぼったくりだねぇ」
「そんなに高くはないと思うけど」
「高い安いの問題じゃないんだよ」
「わざわざお金を払って見に行く所ではないと、そーおっしゃりたいわけですね」
「じゃあ、サクヤさんは一緒に来る気ないの?」
「そうだねぇ、あたしは遠慮しとくよ」
「で、行きは建物の前まで乗せるけど、帰りはどうするんだい?」
「んー、バスかな。ほら、ここ見て」

リーフレットの表紙の部分に閉館時間が書いてあった。夕方の五時の閉館であれば最終バスには十分間に合う時間だ。

「携帯に連絡してくれれば、迎えに行くよ?」
「んー、バスが来るまで一時間以上待つようなら考えるかもしれないけど、別にいいよ」
「それより、早く行かないと閉まっちゃう」

わたしたちはお昼ご飯を食べ終えたばかりだけれど、実際は三時のおやつの時間だった。

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「あと二時間もあるじゃないか」
「ゆっくり見て回りたいの」

一通り見て回るのに二時間以上かかるような充実施設を期待しているわけではなかったが、時間に余裕があるに超したことはなかった。

定食屋からリーフレットの地図に従って車で移動すると、郷土資料館が見えてきた。

贅沢に土地を使った二階止りの平べったい建物は、まだ比較的新しい綺麗な建物だった。屋上からの垂れ幕には「経観塚の歴史と文化」と書かれている。

「へー、なかなか立派な建物じゃないか」
「そうだね。二百円分はありそうだよ。やっぱりサクヤさんも一緒に見学しない?」
「駐車場は無料ですよ?」
「タダっていっても、土地余りのこの辺じゃありがたみが感じられないねぇ」
「ですねー。道路の真ん中とか商店の入り口前にでも止めない限り、そーそー文句の出そうにない土地柄ですからね」
「それじゃあサクヤさん、行ってくるね」
「尾花をよろしくお願いします。今日は詰め込み用のリュックを持ってきてませんし、さすがに真夏に襟巻きの振りはないですから」
「わかったよ。帰りは気をつけるんだよ」

わたしと葛ちゃんは車を降りると、郷土資料館へと向かった。

入り口から中を覗くと人の気配は感じられなかった。

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「わ、中も見事な閑古鳥」
「本当に施設の無駄遣いしてますね」

入り口から展示ブースに到るまでに出会った人はわずか一名。百円玉を二枚手渡した、受け付けの人だけだった。

「桂おねーさん。半額の入館料でここに入った人は、果たして存在するんでしょーか?」
「うーん、一般のお客さんはいなさそうだけど、学校の社会科見学とかなら……」
「ですけど過疎地域の学校は、全学年併せても三十名に満たなかったりしますよ?」
「さすがにそこまで過疎化してないと思うよ。コンビニもハッキンビーフもあるんだし」

コンビニはともかく、ファーストフードのチェーン店が採算の取れない地域に支店を立てるとは思えない。

「さて」

入り口でもらった案内パンフレットを開いて、目的の展示品を探し出す。

「ふひゃっ!」

突然横から覗き込んでいた葛ちゃんに寄りかかられた。

「ごめんなさいです、桂おねーさん。ちょっとバランスを崩しまして」
「あ、ごめんね。背伸びしないと見えなかった?」
「たはは、自分のパンフレットを見ればいいだけの話でしたね」

慌てて、そそくさと離れる。

「あ、おねーさん、蛇神様の話についてはこっちみたいですよ」

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「葛ちゃん、ちょっと待ってよー」 葛ちゃんに付いていくと、蛇神の資料がおいてあるスペースに辿り着いた。

§

その昔、経観塚の長者の家に娘がおった。

よい年頃の、美しく気立てのよい娘であった。

娘の噂は近隣に知れわたり、多くの若者が求婚した。

ところが娘は誰も良い答えを返すことはなかった。

都の貴人の求婚にも良い答えを返すことはなかった。

そして最後には山の神が降りてきて言った。

「娘よ、お前は天つ神に騙し討たれ、奪われた我が祖の花嫁の血を引くものだ。私の所へ来るがよい」

山の神は人間をさらっては食らう恐ろしい神であった。

長者は都に使いをやり、鬼退治の武者を呼び寄せた。

武者は必至で戦ったものの、山の神にはかなわなかった。

そしていよいよ山の神が村へやってくるにいたり、娘は幾人かの行者を連れてきた。

山の神は鏡のように目を光らせ、八色の雷を操り天を震わせた。

行者は空に浮かぶ満月を見上げるとその姿を獣に変え、山の神に挑みかかった。

折りしも満月の夜だった。このことから行者らを観月の行者と呼んだ。

こうして山の神は退治されたが山の神の呼んだ雷は鳴り続けた。

観月の行者は塚をつくると、山の神を篤く祭った。

すると雷はぴたりとやんだ。

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そのときから娘の姿が見えなくなったが、観月の行者といずこへ去ったと言われている。

この塚に由来し、この地は経観塚と呼ばれるようになった。

やがて塚には槐の木が育ち、やがて月まで届くほどになった。

この木は御柱様と呼ばれ、塚に代わって祭られるようになった。

§

「へー」

男の子が喜びそうな、血湧き肉踊るような昔話だった。

「でも、蛇の神様だなんて一言も書いてないよ? もしかして駅員さんの記憶違い?」
「いえいえ、この話では蛇神と書かれていないだけでしょう。山の神様で雷まで使っていますから蛇神様ですよ。たぶん」
「そうなの?」
「そういうものなんですよ。丹塗矢の大物主だって三輪山の神様ですからね」
「昔から綺麗な三角錐の山は神奈備(かむなび)山と呼ばれて信仰の対象となっていたんですけどね、これはとぐろを巻いた蛇の形に似ているからなんですよ」
「そういえば『山の主とか言うてウワバミが住んでいる。蛇の大きいやっちゃなぁ』って、『蛇含草』でも言ってるね」

『蛇含草』は餅の大食いをした人が、蛇が人間を丸飲みにして苦しくなったときに舐める消化薬を食べてしまう噺だ。

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良く効く消化薬だと思って食べた草は、人間を溶かす草だったので、男の人の形をした餅だけが残った――というのがオチだった。ちなみにおそばバージョンの『そば清』という噺もある。

「ところでおねーさん。わたしたちの身近には、三角錐の山よりも似ている信仰の対象があるんですけど、何だかご存知ですか?」
「えー」

頭の中で木魚の音を鳴らしつつ考えても、それらしいものはちっとも浮かんでこない。

「ヒントは?」
「食べられるものです」
「食べられるもので、蛇に似ているもの?」

余計にわからなくなったような気がする。しばらく考えたが思い浮かばない。

「ヒントその二を……」
「蛇の古語を『カガ』と言いまして、おねーさんはアカカガチとか聞いたことありません?」
「蛇……だよね?」
「はい」
「『カガ』がつく食べ物……?」

やはり思い浮かばなかった。

「それでは最後のヒントです。さっきおねーさんがひきあいに出した『蛇含草』」
「え? 『蛇含草』に出てくるの?」
「これ以上言ったら、ヒントじゃなくなってしまいますよう」

『蛇含草』に出てくる食べ物といえばお餅だ。それをヒントその二の『カガ』と合わせて考えてみる。

頭の中に浮かんだのは、大きさの違う平べったいお餅を二段重ねて、その上にみかんを載せたもの。

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「もしかして、鏡餅?」
「そーです。ちゃんと段々になっていて、とぐろを巻いた形に似ていませんか?」
「似てるかも……」

一応お正月の縁起ものだから信仰の対象と言えばそうなのかもしれない。

「だけど、鏡餅の鏡は違う鏡なんじゃ…」

葛ちゃんを見ると、詰まってしまった言葉の先を察したのか、シャーロック・ホームズのように一本立てた指を口の前で左右に振っていた。

「その鏡こそが曲者なんですよ。いわゆる金属製の鏡はもともと輸入に頼っていたものですからね」

鏡という物を指し示すのに、大和言葉の『かがみ』が当てはめられるには、鏡に類似した何かがなくてはならないのだと言う。

「それはですね、『カガメ』――つまりは蛇の目だという説があるんですよ」
「蛇の目?」
「です。目は見ているものの姿を写しますよね」

背伸びして顔を近づけてくる葛ちゃん、その大きな瞳にわたしの顔が写っている。

「鏡が登場する以前の日本では、ものを写すものなんてそうそうなかったんですよ」

例えばピカピカに磨いた石。または湖などの水、そして瞳。

「それらはすべて霊妙不可思議なものとされています。いわば聖地であったり祭器であったりします。石も湖も、神聖なものだったわけです。

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ちなみに三種の神器の筆頭は鏡です。なにせ太陽神・天照大御神(アマテラスオオミカミ)の現し身そのものなんですから」

キラキラ光る太陽と、ピカピカ光る鏡を思い浮かべる。

「その弟である月読命(ツクヨミノミコト)は名前の通り月の神様なんですけど、月には天鏡や金鏡など、鏡をなぞらえた別名がたくさんつけられています」

確か月は太陽の光を反射して光っている、太陽の鏡のような存在。

「そして、鏡と関連付けされるその二柱の神様は、どちらも国生みの父神である伊邪那伎命(イザナギノミコト)の目から生まれているんですよ」
「目から生まれる鏡……」
「はい。天照は左の目から。月読は右の目から」

そこまで言うなら、とりあえずそれは良しとしよう。鏡の『み』の字は『め』から転じたもの。

「でも……なんで蛇なの?」

人間の目では駄目だったのだろうか素朴な疑問が頭に浮かぶ。

「何でといわれても、あくまで一説ですからこうだとは断言できないんですけど。蛇はもともと崇め恐れられていた古い神様ですし……」

葛ちゃんの瞳が、じっとわたしを写している。

「何より蛇は、まばたきをしませんからね」
「ああ」

なるほど、と思った。

そういえば干支の蛇も『み』だったことを思い出した。

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そして気付くと、わたしたちは話の内容に牽かれるように古い鏡の展示スペースに来ていた。

「あれ? あそこのショーケースの中、からっぽだね」

展示の目玉となるはずの、フロア中央のケースには何も入っていなかった。

もしかしたら米粒大の小さなものが大げさに飾られているのかもしれないと近づいてみると、そこには張り紙があった。

『盗難にあいました。誠に申し訳ありませんが展示することができません』

どうやら泥棒に盗まれたものとはこれのことらしい。

「なるほど、これがそーなんですか」
「へー、当時の技術では最高級にあたる鏡で、良月(りょうげつ)って名前まで付いてるんだって」
「良月……ですか?」
「どうしたの、変な顔して? 鏡と月は関係あるんだって教えてくれたのは葛ちゃんだよ」
「いえいえ、別に何でもないんですけど」

何でもないといいつつも考え込んでいる。

博学な葛ちゃんだけに、聞き覚えのある名前かのかもしれなかった。

盗まれた良月は、六三二年に唐から帰ってきた最初の遣唐使によって日本に持ち込まれたものらしい。当時の日本には鏡を量産する技術もなく、また鏡は祭器でもあった。そのため良月は当時神職に就いていた豪族の中臣氏に譲渡された。ケース脇の説明文にはそう書いてあった。

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「六三二年というと舒明四年、旻(みん)が帰って来た年ですね。後につながりありますし、鏡を渡したのは旻本人かもしれませんね」
「旻って誰?」
「この辺は普通に日本史の試験に出ませんか? 旻は後におこる大化の改新の主要人物のひとりですよ」
「ああ、中臣氏って中臣鎌足のこと? だったら旻法師は高向玄理(たかむこのくろまろ)と国博士になる人……でいいの?」
「よくできました。ちなみに陰陽五行を直接日本に伝えたひとでもあります」
「それに鎌足は六韜(りくとう)にも通じていたそうですから、鏡と一緒に渡したのかもしれませんねー」

六韜とは六篇からなる中国の兵法書で、有名な軍師や武将のほとんどが学んでいるという大ベストセラーだ。その六篇うち一篇の虎韜が、俗にいう虎の巻の語源らしい。

「だけど鎌足って神社の人だったの?」
「武神・武甕槌神(タケミカヅチノカミ)を祭る鹿島神宮ゆかりの一族ですね」

あまりぴんとこないけど、武神ということは豪族にも崇められていたんだろう。

「ちなみに武甕槌神は――と、ちょっと失礼しますです、はい」
「あれ? 葛ちゃん?」
「すぐに戻ってきますから」

葛ちゃんは声をひそめてそう言うと、小走りに部屋から飛び出していく。

あんなに慌ててどうしたのだろうかと疑問に思う。

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ああ、なるほどそうか。人間生理現象だけはどうにもならないと一人納得する。

向こうに他のお客さんも見えるし、急に小声になるのも頷ける。

ちょっと失礼かもしれないけれど、わたしたち以外にお客さんがいたことは意外だった。

視線の先のお客さんの様子を眺めていると、ここの職員に何か訊ねているようだった。あんなに熱心な郷土史ファンがいるなら、ここも安泰かもと考えていると、わたしはそのお客さんの顔に見覚えがあることを思い出す。

確かあの人は、わたしが経観塚に来た夜に、同じ電車に乗っていた女の人。

こんなところで会ったのも何かの縁とも思ったが、わたしは郷土史ファンというわけではないので、あの会話の中に割り込んだところで付いていけないだろう。

葛ちゃんがいれば、解説してくれそうだけど、その葛ちゃんも今はいない。

結局、わたしはその場所で葛ちゃんが戻るのを待つことにした。

「…………」

十分程待っただろうか。葛ちゃんはまだ戻らない。

ちらりと見ると、黒服黒髪の女の子と職員さんは真剣な顔をして話し込んでいて、ますます邪魔出来ない雰囲気だった。

手近な展示物でも眺めていれば、時間は潰れるだろうが、どうもそわそわして素通り状態だった。

こんなにそわそわして落ち着かないのはどうしてなのか、わたしにはその理由が思い当たらなかった。

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「……わたしも行こうっと」

わたしはそう呟くと、わたしも葛ちゃんがいるはずの場所へと向かった。

《第七章 了》

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