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第 五 章  夕 立 の 訪 問 者

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瞼越しに感じる日差しの刺激で目を開けると、見慣れない天井が頭上に広がっていた。

ここはどこだろう。うすぼんやりした意識で仰向けに寝たまま、わたしは考える。お母さんとずっと住んでいたアパートの天井ではない。自分が粗忽者なのは自覚しているが、それでも自宅の天井と他の天井とを見誤る筈もない。

そのまま眼を開けてぼんやりしていると、どこからか小鳥の囀りが聞こえてきた。そこまで経って、ようやく状況を再認識する。

ここは経観塚にあるお父さんの実家なんだ。

広い庭と蔵まである威風堂々としたその屋敷に、わたしは昨晩辿り着いたのだ。その事実を思い出しながら大きく背伸びをし、布団から這い出して傍らの障子戸を全開にする。

開け放った障子戸の位置から真夏の太陽光が差し込み、目が眩む。ゆっくり目を開けると、外には鎮守の森の緑が広がっていた。明るい所で見ると昨晩の不気味な印象とは異なり、自然を十二分に感じさせてくれる緑の佇まいがそこにはあった。

外の空気と日光を浴びて、次第に頭がはっきりしてくる。

周りを見渡すと、日の光の下で見る屋敷は築数十年と想像できたが、それを経てもなお堅牢な作りを維持していた。

しかし、さすがに十年来の放置の影響は庭の荒れ模様からも伺える。もちろん電気とガス、水道の三大ライフラインも断たれた状態だった。家庭の方針で一人旅中の葛ちゃんが、不法侵入及び滞在してくれていたおかげで最低限の環境整備がされていたが、

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それがなかったら廃屋同然だっただろう。埃が積もって湿り気を帯びた畳に、かび臭い布団を敷いて寝ずに済んだだけでも運が良いと思って間違いない。それよりも、そんな予想もなしに思いつきのまま泊まりに来た自分自身に今さらながら呆れてしまう。

そこまで考えたところで、この家の店子にしてわたしの恩人たる葛ちゃんとその相棒の白い子狐・尾花はもう起きているだろうか、と思い至った。

耳をすましてみたが、屋敷の中で人の動く気配や物音はない。まだ眠っているのだろうか。いずれにせよ、もうお昼間近な時間だ。葛ちゃんには悪いけれど、そろそろ起きてもらって、これからどうするかを考えよう。

わたしはそう考えると荷物から着替えを取り出し、いそいそと着替えて部屋の外に出た。

廊下を歩いていき、勢いよく葛ちゃんの部屋の襖を開けた。

「葛ちゃん、尾花、おは――」

そこまで言いかけたところで、部屋の中に誰もいないことに気づく。布団もきちんと畳まれ、既に押し入れの中にしまってあった。人の気配はまるでなし。

「あれ?」

一人と一匹の姿はどこにもない。一体どこに行ったのだろう。

「葛ちゃーん? 尾花ー?」

声を出しながら葛ちゃんを捜して屋敷の中を歩きまわる。昨夜は懐中電灯と月明かりだけが頼りだったのでよくわからなかったが、こうして歩くと本当に広い家だと判る。こんな広い家で、お父さんはどんな生活をしていたんだろう。

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不意にそう感じた。見たこともない父の生前、いや幼少期のイメージが頭に浮かんだ。勿論、それはわたしが作り出した幻影でしかないのだけれど。

そこまで考えたところで、はたと昨日の出来事を思い出す。

そういえば、昨日のあの痛みは何だったのだろう。

それに、ある筈のないわたしの名前が刻まれていた理由は?

論理的に納得のいく回答を導き出そうと、わたしは立ち止まって考えてみたが、依然として明晰な理由は導かれるはずもなく、思考は謎をめぐるループを辿るばかりだった。

こんなことを考えていても答えは出ない。またあとで考えよう。そう決心すると、わたしは再び葛ちゃんたちを捜すことにした。

しかし数分後、片っ端から部屋を探してみたが彼女たちの姿は見えなかった。

「あ」

そうするうち、あるものを目にしてわたしはぴたっと足を止めた。

この先はまだ清掃の手が伸びていないらしく、床には埃が積もっている。埃の上に足跡はなかった。つまり葛ちゃんたちはこの先にはいないということだ。

「おかしいなぁ。どこにいったのかなぁ」

わたしは一人そう呟くと、はっと思いついた。

狐に化かされた?

いやいや、まさか。

自分で考えたことを慌てて打ち消し、わたしは我に帰る。

ぐーー。

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そんなことを考えていると、突然お腹の虫が鳴った。

考えてみれば、昨日のお昼からわたしが口にしたのはお饅頭だけだった。そう思うとどんどん空腹感が増してくる。しかしこの屋敷に食料があるとも思えない。食料を買いに行くにしても町まで出ないとお店があるとも思えない。

いったい葛ちゃんたちは今までどうしていたのだろうか?

「おーい、どこいっちゃったのー? 朝ご飯食べようよー」

わたしは取って返し、玄関へと向かいながらそう叫んでみたが反応はなく、静寂が広がっているだけだった。

一体どうしたのだろう? 不安感が増す中で玄関に到着して床を見渡すと、そこに並んでいる筈の葛ちゃんの靴はなかった。

本当にどこに行ってしまったのだろう。食料調達だろうか? それともわたしに遠慮して出て行ってしまったのだろうか?

ぐーー。

そこまで考えたところで、またもわたしのお腹の虫が鳴った。

「…………」

我ながら不謹慎な気もするが、腹が減っては戦はできぬ。わたしはまずこいつを抑えることにした。この際、葛ちゃんたちの行方を調べるのは後回しにしよう。

部屋に戻って簡単に身支度を整えると、食料買い出しの準備をして外へ出た。

玄関から一歩踏み出すと、真夏の陽光が降り注いでくる。見上げると抜けるような青空が広がっていた。空は本当に広かった。そう感じるのはきっと目の端にかかる高い建物が近場にないからに違いない。

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鎮守の森の木陰道を歩いて道路まで出ると、土煙を上げながらバスが走ってくるのが見えた。森の木々の間を抜けて差し込む木漏れ日を受け、バスの車体のジュラルミンが眩しく光っていた。慌ててわたしは停留所前に向かう。

数秒後バスは停留所まで近づいて来たが、スピードを落とす気配はなかった。不思議に思っていると、バスは何事もなかったかのようにエンジン音をたててわたしの目の前を通り過ぎていく。

あれ?

そこでようやくわたしはバスに無視されたことに気づいた。

道の端の停留所の標識に寄り添うように立っていたわたしは、慌てて道の真ん中に飛び出し、バスを追いながら両手を大きく振り回して精一杯の声を出す。

「乗客いますよー! わたし乗客ですよー!」

運転手さんがわたしに気づいてくれたのか、数十メートルほど離れたところでバスは停車した。やれやれ。

わたしは胸をなで下ろすと、小走りでバスに向かった。追いついたバスの開いた自動ドアからステップを上って乗り込む。

「すみません、この停留所でお客さんを乗せるなんて初めてだったんで。私の運転歴の中でも降りるお客さんもいませんでしたし…」

まだ若そうな運転手さんが頭を下げた。

「何だか狐にでも化かされてる気分ですよ」
「わたしもです」

そう言うと、わたしは車内の奥へ進んで席に座った。そのまま頭上に目をやり、車内の天井付近のカーブに記されたバス停一覧を確認する。わたしは駅前がとても寂しいかったことを思い出し、そのふたつほど手前の停留所『経観塚銀座通り前』でバスを降りることにした。

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三十分ほどバスに揺られていると、目的の停留所に到着した。わたしは停車ボタンを押してバスを止め、車から降りる。

「さて……」

わたしはどこでお腹を満たそうかと商店街の案内板に目を通す。案内板からは、この付近に定食屋、ファーストフード、コンビニエンスストアなど一通りのお店が揃っているのが判った。

すぐにでもお腹に何か詰め込みたい気持ちだったが、葛ちゃんが何も食べずに屋敷に戻ってきて待っているかもしれないと考え、コンビニで食料を買出しして戻ることにする。

ぐーー。

そのとき、またもお腹から三度目のブーイングが鳴った。

わたしはお腹をさすって必死に宥める。こんな山奥まで考えなしに来て、わたしは一体何をやっているんだろう。そんな想いが脳裏をかすめたが、黙って無視した。

「いらっしゃいませー」

コンビニの自動ドアが開くと冷えた空気が流れ出し、店員さんの声が店内に響いた。こんな山奥の土地にも都市部と同じようなコンビニがあることに内心ちょっと驚きながら、わたしはふたりと一匹分の食料を、昼食分まで考えて多めに購入することにする。

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葛ちゃんの好き嫌いを考慮しておにぎりの具は全種類制覇。それと尾花用にお稲荷さんも購入。さらにクーラーで冷えた店内を物色して、食べ物のほか飲み物や割り箸、紙コップやお皿、お得サイズのウェットティッシュなどの生活用品を放り込むと、かごはずっしりと重くなった。

「ううっ……お、重い」

わたしの金銭感覚からするとコンビニで生活用品を買うのは気が引けるが、今回は土地勘のない場所だからやむを得ない。お茶やお水のペットボトルもスーパーや薬局で探した方が安いだろうが、空腹状態で異郷をうろうろするのは切なすぎる。旅館に泊まらなかった分だけ節約しているはずだし、今回は大目に見ることにした。

会計をすまして外に出ると、熱気が襲ってくる。太陽は頭上の真上に近い位置に来ているし、雲ひとつない快晴のためかコンビニに入る前より気温は確実に上がっていた。

「暑い……重い……お腹空いた……」

バス停へと戻る道すがら、わたしは何度も挫けそうになった。

「ううっ、タクシー捕まえちゃおうかな……」

泣き言を吐きながら顔を上げると、憎々しいまでに空は青く、太陽がギラギラと輝いている。そして周辺からはうるさいくらいに蝉の声が響いていた。

汗を流しながらようやくバス停まで辿り着くと、わたしは座り込んでバスが来るのを待った。

§

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数時間前にバスに乗り込んだ停留所で、わたしはバスを降りる。

バス停から屋敷までの小道は、頭上を覆う緑の枝が落とす影と風通しのよさのおかげで覚悟していたほど辛くはなかった。

伸びた袋のビニールが手に食い込むのが痛いけれど、それもあと少しの我慢だ。

鎮守の森の出口を抜け、飛び石を渡って玄関前に辿り着く。

「葛ちゃん、いるー? いるならちょっと開けてくれないかなー?」

屋敷の中から返事はなかった。

わたしは荷物を下に置こうとしたが、玄関が引き戸だったことに改めて気づいた。仕方がないので周囲に誰もいないことを確認すると、その場で後ろを向いてお尻を格子部分に引っ掛け、横に振って引き戸を滑らせる。

まさかこんな山奥で、お尻で戸を開ける羽目になろうとは。

引き戸はからからと音をたてて開いた。

わたしは玄関で靴を脱ぎ捨てると、居間に入るや否や荷物を畳に投げ出す。

「はぅ~疲れた~重かった~、もう持つの嫌~」

おにぎりはともかく、ニリットルのペットボトルを一本、二本、三本……総重量を認識するとがっくりきそうなので、うやむやのまま計算を終了する。

荷物に続いて、畳の上に大の字に身体も投げ出す。横になってしばしの間、畳のひんやりした表面に火照った肌の熱を吸い込ませた。

開け放した縁側から森の匂いを含んだそよ風が吹き込んできていた。

「ふや~」

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猫のような声をあげ、ごろりと身体を転がして温くなった畳を放棄しつつ、冷たい新天地を求めて畳の上をごろごろ移動する。

「ひや~」

しばらくそうしていると、少し元気が出てきた。その途端、

ぐーー。と四度目のお腹がなった。さすがに活動限界が近いらしい。そろそろ朝食兼昼食といこう。

「葛ちゃーん、尾花ー、ご飯にするから出ておいでー」

がばっと立ち上がって叫びながら部屋と台所、その他の部屋を見て回ったが、彼女たちの姿は出てきたときと同じようにまったくなかった。

玄関に戻ると脱ぎっぱなしだった自分の靴をそろえて下駄箱の中も覗いてみたが、わたしのもの以外に靴はない。やはり葛ちゃんたちは屋敷の中にいないらしい。

「もうっ、先に食べちゃうよっ。せっかく一緒に食べようと思って買ってきたのにっ!」

わたしはむくれつつ居間に戻る。

すっかり汗をかいていたペットボトルのせいで、畳には大きなしみが広がっていた。それを見て一層強まった空腹感に耐えることができず、わたしはおにぎりを袋から取り出すと口を付けた。

簡単な食事を済ませ、そのまま居間で佇んでいると玄関の引き戸が開く音がした。

ようやく葛ちゃんが帰ってきたのかなと、わたしは耳をそばだてる。

足音がするのがわかった。板張りの廊下が軋む音はやや重たげで、乱暴な足音だった。

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葛ちゃんじゃない?

わたしは近づいてくる足音からとっさにそう判断した。その途端に心臓がきゅっと縮んだ気がして、同時に緊張感がわたしを包んだ。寝汗を吸った服が背中に貼りつき、背筋が冷たくなる。

声を殺し、音を立てないように横たえていた身を起こす。

どうしよう? 頭の中がぐるぐると回りだす。

押し入れの中に隠れようか? それは駄目だ。見つかったときに退路が断たれる。だったら縁側から庭に出る? でもこんなに草が生い茂った所を、音を立てないで歩くなんて無理だ。それに靴だって玄関に置いたままだ。

そこまで素早く考え、わたしはしまった、と思う。

わたしの靴は玄関に出しっぱなしになっている。きっと入ってきた誰かにも見られているだろう。こんなことなら下駄箱の中に片付けて置けばよかった。

背中をどっと冷や汗が流れる。

さっきまでの暑さが嘘のようだった。手足はカチコチに凍り付いていて、動かしたら音を立てて折れてしまいそうに感じられた。

ドスッ、ドスッ――

足音は次第に近づいてくる。来た!? いや、もうそこまで来ている。駄目だ、もう駄目。もう隠れる時間も逃げる時間もない。

お母さん助けて。

何にもならないとわかっているのに、わたしは心の中で母に助けを求め、ぎゅっと目をつぶって畳の上に置いてあったバスタオルを頭から被った。

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足音は居間の手前で停止した。

物凄く長く感じられる数秒が過ぎた。

しゃがみこんだわたしの背後で突然聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「桂おねーさん、この暑いのに何やってるですか?」

バスタオルからそっと顔を覗かせて振り向くと、大荷物を抱えた葛ちゃんがいた。

「桂おねーさん?」

彼女が一歩前へ踏み出すと、床が大きくたわんで軋んだ。大きな足音の原因は葛ちゃんの体重と持っている荷物の総重量だった。

「ふぇ~~~」

凍り付いていた身体が解凍されたように、わたしはくてっと畳に突っ伏した。

「おねーさん、どうかしました?」

びくびくしたり、へなへなになったりしたわたしに比べ、マイペースすぎる葛ちゃんの態度。悪気があるわけじゃないのはわかっていたが、何だかカチンときた。

反射的に立ち上がって葛ちゃんをぐっと睨んだ。

「おねーさん?」

目の奥から湧いて出てくる熱いもので景色が歪んで見えたが、それを手の甲で拭って両眼と震える唇に力を入れる。

「葛ちゃん、なにやってるの!?」
「はい!? 何ってその、ちょっと町までお買い物にですね……」

それは見ればわかる。

「どうして出て行くときに『いってきます』って一言いってくれなかったの!?」

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「それはその……桂おねーさんが気持ち良さそうに眠っていたものですから、起こすのも忍びないかと」

葛ちゃんは尾花と顔を見合わせて小首を傾ける。

「じゃあ、何で帰って来たときに『ただいま』って言ってくれなかったの!?」

こんなのは只の八つ当たりだとわかっていた。だけど朝はちょっと心配したし、さっきはすごく怖かったのだ。

わたしは言葉を止めることができなかった。

「こんどからはちゃんと帰ってきたら『ただいま』って言ってよ! じゃないとここに居させてあげないんだから! 大家命令なんだから!」

勢いに任せてそこまで言ったところで、わたしは自分のしたことにはっと息を呑む。もっと普通にお願いすればいいのに、年下の女の子に感情のままに大家命令だなんて。

思わず涙が落ちそうになった。

絶対に葛ちゃんだって呆れ果てて「出て行く」とか言い出すに決まっている。

「『ただいま』…ですか」

葛ちゃんの反応は、どちらが年長者かわからないほど冷静だった。彼女は「それは思いつきもしなかった」とでも言いたげな顔をし、屈託のない笑顔を浮かべて一歩こちらに寄ってきた。

「そーでしたよね。ひとつ屋根の下に暮らすもの同士の挨拶ですよね、『いってきます』と『ただいま』は。了解しました、肝に銘じましたっ」

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「え、あ、うん……」

「それじゃあただいまです、桂おねーさん。わたくし葛とその相棒の尾花は、生活物資の調達任務を終え、無事に帰投しましたです!」

葛ちゃんはそう言って軍隊の敬礼のようなポーズをとった。

「うん」

わたしは目に浮かんだ涙を手で拭いながら、一生懸命笑顔を作って返事をした。

葛ちゃんも鼻の下をこすりながら、はにかんだ笑顔でわたしを見ていた。

§

違いによる大騒動のあと居間でくつろいでいると、縁側で空模様を眺めていた葛ちゃんが伸びをしながら立ち上がった。

「さて、日が暮れる前にもう一仕事しておきますかー」

まるくなっていた尾花も四つ脚をぴんと突っ張って立ち上がり、無声の欠伸を吐く。わたしもちょっとだけ居住まいを正して訊ねる。

「何かすることあるの?」
「この家の居住性を劇的に引き上げる小悪魔のようなプロジェクトが、目下資材搬入まで進行しているのですよ」
「小悪魔のような?」
「悪魔というほど大それたことはしませんので」

そう言って笑う葛ちゃんは、確かに小悪魔って感じだけれど。

「それではおねーさん。快適な生活のために少々作業に従事してまいります」

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「手伝おうか?」
「そのままのんびりお休みください。専門知識が必要ですので、おねーさんは猫の手です」
「ううっ、つまりは役立たずと?」
「そんなことはないですよ。忙しいときにはお借りします。それじゃあ尾花、向こう行こう」

そう言うと葛ちゃんは工具箱を持って出ていった。あの工具箱はどこから持ってきたものだろう。いや、それよりいったい何をするつもりなのだろうか。

葛ちゃんが働くと言ってるのに、わたしだけごろごろしているというのもお尻がこそばゆくていけない。

何か出来ることはないだろうかと、とりあえず居間の中を見渡してみた。

葛ちゃんが入手してきた物資のほとんどが、運び入れられた状態のまま片隅に転がされていた。夜になったら懐中電灯一本きりという乏しい照明事情の中での活動を余儀なくされるのだ。この状態のまま放っておいたら必要なものを探すのにも難儀することは間違いない。

そのことに思い至ったわたしは立ち上がった。

「よしっ」

備えあれば憂いなし。明るいうちに分類整理しておこう。

荷物を整理し始めると、食べ物と飲み物が目に入った。食べ物は調理不要の保存が利くものばかりだった。こんな所で生活していたら自然にそうなるのかもしれない。

続いて出てきたのは蝋燭とライターだった。確かに懐中電灯みたいには明るくないけれど、経済効果を考えればろうそくの方がお得かもしれない。

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次に出てきたのはお徳用花火セット。

まあ夏だし、コンビニでも売っていたりするし、葛ちゃんもこういうのが好きな年頃だろうし、わたしも嫌いじゃない。それにしても何故に花火? もしかすると、さっきのろうそくは、こっちが目的なのだろうかと疑問に思う。

疑問はさておき、荷物の整理を続けると今度はピザの宅配用ボックスのような平らな箱が、電気屋さんの紙袋から出てきた。蛍光管だった。

その箱を手にしたまま天井を仰ぐと、傘の部分に埃を積もらせた蛍光灯がぶら下がっていた。磨りガラスを格子状の木枠で囲んだ古びたデザイン。木材部分の黒ずみ具合からして、レトロさを狙ったのではなく、実際に古いのだろう。だとしたら、はまっている蛍光管はとっくに切れているだろうから、代える必要があるのは確かなのだけれど。

視線を手元に戻して、箱を見る。

電気が通っていないところで蛍光灯を買ってくることに意味があるのだろうか。しっかりしているように見えても、やっぱりまだ子供なんだなぁと思っていると、突然滝のような水音が聞こえてきた。

何の音なのか発信源を探して屋敷の中をうろうろすると、音は台所から聞こえてきていた。廊下から台所に首を突っ込んで覗いてみると、シンクの蛇口から赤茶けた水が滝のようにほとばしり落ち、アルミの流しを叩いていた。

背後で不意に声がした。

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「うわー、これはしばらく出しっぱなしにしておかないと駄目ですねぇ」
「ひぁっ!?」

人里離れた古い屋敷では、昼間でも突発事項は心臓に悪い。

驚いて動悸が早くなった胸に手をあてて振り返ると、いつの間にかやってきた葛ちゃんが立っていた。

葛ちゃんは流しまで行くと、少しだけ蛇口を閉める。

「水道が復帰しましたー。これで川へ洗濯に出かける必要もなくなりましたよ」
「わ、もしかして葛ちゃんが言ってたプロジェクトってこれ?」
「ふふふっ、まだまだ終わりじゃないですけどね」

そう言って葛ちゃんは不敵な笑みを浮かべた。

大した子だ。改めてわたしはそう思った。わたしみたいな役立たずと比べると、彼女のほうがサバイバル生活への適応性がある。

感心したままわたしは彼女を見ていたが、この後も葛ちゃんは屋敷中を飛びまわって電気まで復旧させることに成功した。

§

気が付くといつの間にか蝉時雨が止んでいた。山の天気じゃないけれど、蝉時雨だってすぐに止んだり始まったりする。ところが今回はそれきり止んだまま再開しなかった。

不自然なくらいに長い静寂のあと、山のほうから響いてきたゴロゴロという雷音が静けさを破った。低く唸るような空気の震えがわたしのお腹を揺さぶる。

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縁側に目を向けて空模様を確認すると、さっきまで澄み渡っていた空がいつの間にかどんよりと薄曇りになっていた。

「これはきますね」

葛ちゃんの口ぶりはもうすぐ雨が降り出すことを確信しているようだった。

「降るかな?」
「降りますよ」

そのとき視界を小さな影が横切った。見えにくい小さな何かが、空から庭に落ちてくる。

水の雫が砕ける音がした。

屏風絵のような山の姿に、一本また一本と雨粒の軌跡が描き足されていく。屋根瓦を叩く雨音は、手数まかせにその間隔を詰めていって、やがて途切れのない音のうねりになった。打たれた草葉が俯くほどの、粒の大きさと勢いだった。

「さてと……暗くなってきましたね」

膝立ちに腰を上げた葛ちゃんが天井から垂れ下がっていた紐を引っ張ると、居間は蛍光灯の白い光に包まれた。

「電気はこの通りつきましたけどエアコンはないですから、この雨で過ごしやすい温度まで下がってくれるといいんですけどねー」
「そうなってくれると雨様々なんだけど……雨漏りは大丈夫かな?」
「んー、どーでしょう。とりあえず今使ってる部屋は大丈夫の筈ですけど」
「じゃあ、一安心だね」

三大ライフラインのうち、ガスだけはボンベで配給されるタイプだったため、使用できる見通しが立っていなかった。

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「にしても葛ちゃんってすごい。よくこんなことできるよね」
「まあ、天才ですからこれぐらいは」

天才というより、むしろ知恵をつけて逞しく育っているといった感じだけれど、すごいことには変わりない。少なくともわたしには真似できない。

「だけど電気つくようになって良かったよ。暗い部屋で、しかも雨なんて降ってたらなんだか落ち込むし……」

言葉を言い終える前に一瞬空が真っ白に輝いたかと思うと、次の瞬間には部屋の明かりが消えていた。

「なになに!? 一体どうしたの!?」
「単なる停電ですってば。電線が切れたりしてない限り、しばらくしたら復旧しますよ」
「ううっ……雷落ちたの、かなり近いところじゃなかった?」
「そうですねー」

そんな会話をしていると玄関から戸の鳴る音が聞こえてきた。

その音に反応して、テーブルの下で丸くなっていた尾花が出てきてぴんと耳を尖らせた。

「あれ? お客さんのようですね」
「風か雨で戸が鳴っただけじゃ?」
「だけど尾花、普段はそーゆー自然現象じゃ反応しないんですよ。桂おねーさんが来たときなんかは、真っ先にすっとんで行きましたけど」
「つまり、尾花が興味を示したということは誰かが来たと……」

わたしは少し思案した後で確かめてみることにした。

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「それじゃあ、ちょっと見てくるね」
「ですけどおねーさん。こんな所に来る人なんて、きっとマトモじゃない人ですよ。そう思いません?」
「わたしは?」

わたしも、こんな所に来た人だった。

「桂おねーさんは家主ですから」

葛ちゃんは腕を振ってノーというゼスチャーをする。

「じゃあ電力会社の人とか、水道局の人なら?」
「うわー、もうバレましたか? それならそれで居留守を使ってやり過ごした方が……」
「……何にしてもとりあえず出てくるよ。こんな雨の中を待たせるのも悪いし」

葛ちゃんが言うようにまともな人じゃない可能性もあるから少し怖いけれど、それならば尚更家主で年長者のわたしが応対しなくてはいけない。

「よしっ」

自分に気合いと根性を入れて立ち上がる。

すると自分の荷物をごそごそと漁っていた葛ちゃんが、棒のようなものを持ってやってきた。

「ではおねーさん、これを」

手に押し付けられた棒のようなものはずっしりと重く、その重さが片側に寄っていた。

「金槌?」
「女子供の力でも、思いっきりやれば一発です」

物騒な物言いだった。

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「幸い広さは十分ですから、的が細くなる縦振りよりも、横から振るのをお勧めします。技術が追いつくなら側頭部狙いで」

さっきよりも物騒で剣呑な物言いだった。

もしかすると、葛ちゃんはわたしのときもこれを後ろ手に隠し持っていたりしたんだろうかと思うと、思わず一歩後退りしてしまう。

「……そのー、できればもっと痛くなさそうなのがあるといいんだけど。とりもち爆弾とか?」
「そんなの駄目です、桂おねーさんっ!!」

たじろぐわたしを前に、葛ちゃんは説教を始める。

「そんな甘っちょろいこと言ってたら今の世の中生き残れませんよ? 何かあってからじゃ遅すぎるんです。取り返しはつかないんですから」
「それにはわたしも同意するけどね……」

葛ちゃんのお父さんとお母さん、取り返しのつかない事故が起こる前に教育方針を改めた方がいいとお伝えしたいです。

くどくど説教を続ける葛ちゃんにわたしは得物を手渡した。

「はい、返すね」
「桂おねーさん?」
「何かあったら大きい悲鳴あげるから、その時になったら持ってきてよ」

そんな会話をしていると、再び玄関の引き戸をノックする音が聞こえてきた。

「と、いけない。急がなきゃ」

わたしは金槌を葛ちゃんに押し付け返し、小走りで玄関に向かった。

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外から声が聞こえてくる。

「もしもーし? 留守ですかー?」

女の人の声だったので、わたしは少しだけほっとする。

玄関に辿り着くと、来訪者の影が見えた。

磨りガラスに映るシルエットはかなりの長身で、並んで立つとわたしの目線はおそらく顎よりも下になるだろう。顔を見るには少し見上げる必要があるかもしれない。ただしウエストもかなり高い位置にあるので、靴のかかと分を差し引いた実際の身長はそこまで高くはないようだ。肩幅だって、女の人にしてはしっかりしているけど、そんなのパットを入れればどうにでもなる。

来訪者と扉一枚を隔て、大丈夫と自分に言い聞かせる。

魚がいない釣り場には釣り人だって立ち寄らない。葛ちゃんが心配しているようなことには、きっとならない。

「はーい、今出まーす」

そう言ったところでタイミングよく電気がついた。送電が復旧したらしい。

わたしは、たたきに並べてあったローファーを爪先に引っ掛け、引き戸のところまでちょこちょこと向かう。

カラカラと引き戸を開けると、そこには雨でびしょ濡れの女の人が立っていた。

「いやー、ホントに参ったよ。そろそろ山から降りようかってときになっていきなり雨に祟られてねぇ」
「それは災難でしたね……って、あれ?」

雫を垂らす前髪をかきあげながら、その女性はニッと白い歯を剥いて笑う。

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わたしはこの女の人を良く知っていた。

「どうしたんだい、桂。そんな狐につままれたような顔してさ」
「いや、狐はもう十分なんだけどね」
「は? あんた、相変わらず突拍子もないこと口走るんだねぇ」

向こうもわたしを知っていたし、微妙に時代がかった、それこそ時代劇に出てきそうな話し口調といい、間違いない。

彼女はお母さんの昔からの友達で、憶えている限りではわたしにとって一番古い知り合いでもある浅間サクヤさんだった。

こんな山奥で不意に現れた知人を前に、わたしはぽかん口を開けたまま二の句を継いだ。

「どうして、何でサクヤさんがこんな所に?」
「こんな所とはお言葉だねぇ。ここは笑子さんの家だろう?」

笑子さんというのは、わたしのお父さんのお母さん。つまりわたしのお祖母ちゃんのことだ。お父さんの実家ということは、お祖母ちゃんの家ってことにもなる。

「サクヤさんって、お祖母ちゃんとも知り合いなの?」
「そーさ。しかも笑子さんとの付き合いの方が、長いといえば長いよ。まあ、言ってみればあたしのお陰であんたが生まれてきたようなもんさ」
「お父さんとお母さんの仲人ってこと?」
「そんなところ。それはそうと、さっき言ったように雨に祟られてね。それで近くに笑子さんの家があったのを思い出して軒下でも借りて雨宿ろうかと来てみたら、なんと明かりがついてるじゃないかい。近づいたら消えたけどさ」
「たぶん停電。わざとじゃないよ」

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「ならいいけど、ずっと居留守を通されるんじゃないかって心配したよ。あと三十秒遅かったら、戸を蹴破ってでも勝手に入ってたね」
「わ、サクヤさん横暴。軒を借りに来たんじゃなかったの?」
「そうだけど、笑子さんの縁で生きてるのは桂だけだからね。あんた以外にこの家に入れる人間はいない筈。あんたは居留守なんて使わないだろうし、だったらこの家に居るのがあんた以外なら叩き出しても問題のない不法侵入者ってわけだ。違うかい?」
「……あはは、わたしが出て良かったよ」

いやいや、危ないところだった。

金槌片手の葛ちゃんが出ていたらと考えると冷や汗が出た。

「でも、わたしたちだって驚いたし、こんな所に来るなんて普通じゃない人だろうから居留守を使う可能性もあったんだよ?」
「ん? 桂、あんた今『わたしたち』って言わなかったかい?」
「あ、うん。サクヤさんに言わせれば、不法侵入者ってことになるんだけど、今はわたしが許可してるんだからケンカしないで仲良くしてよ?」
「男かい? 女かい?」
「女の子と狐が一匹」
「なるほど。それが最初の『狐はもう十分』に繋がるわけだね」
「うん。ところで、何でサクヤさんこそこんな所にいるの?」
「仕事だよ、仕事。これこれ」

そう言ってサクヤさんは大きなレンズの付いた愛用のカメラをわたしの目の前で振った。

サクヤさんの仕事は写真家兼ルポライターだ。

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今の仕草から察するに、今回はどうやら写真の仕事で来ているらしい。

「今度のは『日本に残された野生』とかいうテーマで、被写体は狐狸の類に猪鹿蝶とか、まあそんなところだよ」
「蝶々もなの?」
「一応ね。奴らは見栄えがいいからさ」

元を正せば記事に添える写真のためにカメラの使い方を覚えたと言っていたが、趣味で撮った写真が評価されて今に到っていた。踏み分けるのも困難な秘境や滅多にお目にかかれない野生動物の生態など、被写体として撮るのはもっぱらアウトドア方面らしい。

「でも、なんでここなの? 動物が出るって有名な場所が、もっと他にもありそうなのに」
「有名な所は観光地化してたりするからだよ。餌付けされた連中なら、あたしじゃなくても誰でも撮れるよ」
「あ、そうか」
「それに、この辺なら多少の土地感もあるしねぇ」
「なるほ――」

そこまで言ったところで何だか急に鼻がむずむずしてくる。

「くしゅんっ」

手で覆う間もなく、むずむずが破裂した。

「ううっ、風邪ひくといけないから、立ち話はやめにして、中に入ってちゃんと頭とかふこう」
「じゃあ、ありがたくお邪魔するけどさ」
「ん……んん?」

鼻をずずっとすすりあげながら、サクヤさんの疑問を促す。

「なんで濡れてないあんたがくしゃみをするんだい?」

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「アハハ……なんでだろう?」

わたしはとりあえず笑ってごまかした。

サクヤさんを居間に通すと、わたしは着替えを探した。葛ちゃんのは論外として、わたしの服もぜんぜんサイズが合いそうになかったので、家捜しを敢行してみる。その結果、運良く押入から浴衣を見つけることができた。

サクヤさんに浴衣を渡すと、彼女は濡れた服を脱いで浴衣に袖を通した。

「なかなかこれは、落ち着くねぇ」
「そうだね」

浴衣といっても縁日に着ていくようなおしゃれなものではなく、寝巻き代わりに丁度良い薄手の単のものだった。虫食いなども見当たらなく、保存状態も良い。

「それにこれなら、着付けとかできなくても一人で着れるしね」

浴衣は三人分あったので、ついでにわたしも着替えてみた。

朽ちていなかった屋敷、腐っていなかった畳、カビの生えていなかったお布団に引き続き、奇跡の大安売りに当たっているような気がする。

「これって誰の浴衣だろう。お祖母ちゃんかな、それともお母さんのかな」

くんくんと袖の匂いを嗅ぐと、仄かに甘い花の香りまでして、何だか嬉しくなってくる。

「なんだか旅館に泊まってるみたいだね」
「ここ、おねーさんの家ですよ?」

葛ちゃんがツッコミを入れる。

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「わたしずっと手狭なアパート暮らしだったから。こんな広いところに泊まったのって中学校の修学旅行以来だよ。ところで葛ちゃんはそのままでいいの?」
「たはは。丁度いいサイズがあれば、お借りしたかもしれませんけど」
「うーん、わたしと同じのだと無理か……」

基本的に一枚布なので、少々なら調整しなくても大丈夫なのだが、大きすぎたりすると歩くだけでも大変そうだ。

「葛ちゃんサイズの、ないのかな?」
「それなら、桂と……はく――しょい! こんちくしょー」

言いかけた言葉の途中でサクヤさんは大きなくしゃみをして、鼻をすすり上げる

「大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。何でもないよ」
「それならいいけど、サクヤさん。今のくしゃみで気になることがあったんだけど……」
「な、なんだい?」
「今のくしゃみすごく変っていうか、どこかのおじさんみたい」
「オヤジ臭くて悪かったね。だけど落語や時代劇ばっかり見てるあんたに言われたくないよ」
「わ、ひどい。すごい偏見。全国の時代劇ファンと落語ファンに謝るべきだよ、わたしを含む」
「はいはい、それは失礼しました」

すごく等閑な謝罪だった。

「それより、あんたが子供の頃に使ってたのがあるかもしれないって言いたかったんだよ」

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「じゃあ、もう少し探せば見つかるかな?」
「いえいえ、それには及びません。わたしはこれで十分ですので」
「そうなの?」

なんだか葛ちゃんだけ仲間外れみたいで、少し気が引ける。

「着物はともかく、実家ではこういう服はあまり着られないので、着るなら今のうちですし」
「うーん、ならいいけど……」

びしょ濡れだったサクヤさんの格好が落ち着いたところで、葛ちゃんにサクヤさんを紹介することにした。両者の直接の知り合いであり、この屋敷の一応の家主であるわたしが間に立つのが筋だろうと、まずはサクヤさんを紹介する。

「葛ちゃん、こっちが浅間サクヤさん。わたしのお母さんの友達で、怪しい人じゃないから安心してね」

そこまで言ったところで、年齢差が一五歳くらいは離れているだろう二人が互いに相手を見つめているのに気付く。

「……葛?」
「……浅間?」
「あれ? もしかして、ふたりとも知り合いだったりしたとか?」
「いや、大したことじゃないさ。あたしが昔、世話になった所にそういう名前の跡取りがいたような気がしてねぇ」
「そうそう、こっちはアレですよ。浅間と言えば忠臣蔵」
「忠臣蔵は浅野だよ」
「たはは、それもそうでしたー」

しーん。

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微妙な静けさが部屋を包んだ。

ギャグが滑った感じと、言い出せない事がある感じが混ざったような雰囲気。

本当に知り合いじゃないのだろうか? サクヤさんと葛ちゃんの関係について二人に色々聞いてみたいことはあったが、今は触れないでおくことにした。

だけど、この気まずい空気の中で一体何を話せばいいんだろう。

「さて、そんなことよりもだ」

さすがにここは年の功というか単に神経が太いのか、沈黙を破ったのはサクヤさんだった。

「ふたりとも今日の夕食はどうするつもりなんだい?」
「晩ご飯?」
「町まで食べに行くにしても、あたしの車は離れたところに置いてあるから、雨が止まないことにはそこまでが面倒だしねぇ」
「あ、食べ物なら一応……」
「はいはい、一杯あるですよー」

葛ちゃんはそう言って、居間の傍らに置いてあった袋から大量の食料品をテーブルの上に置いた。

「栄養調整食品ですから、バランスだけは完璧です。たくさんあるんでお好きなだけどうぞー」
「…………」
「甘いものならお饅頭があるよ。わたしの地元のあれ、サクヤさんも好きだったよね?」
「は……」
「……サクヤさん?」

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「ははっ……はははっ……あんたら、発展途上の若い身を、こんな食事で養ってこうって?」

サクヤさんはそう言って、突然テーブルを叩く。

「もうちょっとマシなものをお食べっ!!」

ジャンクフード世代の若者二人は、揃ってたっぷりと怒られた。

サクヤさんの説教は昏々と続き、わたしたちは最後には半泣きの体になっていた。

しかし、その夜は三人揃って、有り物で食事を済ますことになった。

《第五章 了》

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