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第 四 章
少 女 と 白 銀 狐 と お 化 け 屋 敷 2

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わたしは走っていた。

どこを走っているのかは判らない。周りの光景は真っ暗とも薄明るいとも言えないような赤と黒のグラデーション状になっていて、はっきりと見えない。昼なのか夜なのかさえも判断できない。自分で気づいたとき既にここを走っていた。

何かが背後に迫ってくる。

気配を感じ、走りながら振り返るとその姿が見えた。人のようだが暗くて影になっていて、はっきりとした姿は見えない。何かは次第に距離を詰めてきていた。

逃げなければ。

咄嗟にそう考え、足を速める。もっと、もっと、もっと、速く。

後ろに迫る何者かに追いつかれまいとする焦りが圧迫感を生み、運動量が上がった心臓が激しく鼓動して胸を焼く。

このままでは追いつかれてしまう。本能はそう語っていた。

走り続けたことで疲労は蓄積し、足を動かすペースも遅くなっている。もう一度振り返ると、何かはすぐ後方まで迫っていた。わたしは慌ててふたたびスピードを上げる。

だがそれが限界だった。

ほんの数秒後、走る速度は目に見えて低下する。背後の何かがさらに迫る。そして肩に背後から手がかけられた。わたしは思わず悲鳴をあげる。

暗転。

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一瞬ののち、ふっと世界が入れ替わった。

わたしは眼を開けて布団から飛び起きた。判っていたが、やはり夢だった。

しかし夢とはいえ、本当に走り回ったような疲労感はあるし、心臓はどきどきしている。それに口の中はすっかり乾ききっていた。

乾いた喉を潤すために水を飲もうと体を起こす。

どうやらまだ真夜中らしく、部屋の中は真っ暗なままだ。部屋の明かりをつけようとして手を伸ばしたが、手が空振りしたことでここが住み慣れた自宅ではないことを思い出した。

頭の靄が晴れてくる。そうか、ここはお父さんの実家なのだ。

ようやく事態を認識したわたしは、水分をとる方法に思いを巡らした冷蔵庫の中は空だろうし、おそらく水道だって止まっているから台所に行っても無駄だろう。良いアイデアが浮かばず、こんなことなら寝る前に葛ちゃんに今までどうやって生活していたのかを聞いておくべきだったと後悔した。

「ううっ、がまんするしかないか」

誰にともなく、独り言を呟く。

ひどい喉の乾きを覚えたが、仕方ない。そう思いつつしばらくぼんやりしていると、電車に乗るときに買ったお茶が半分ぐらい残っていたのを思い出した。鞄に入れたペットボトルを探そうと、寝る前に枕元に置いていた懐中電灯のスイッチを入れた。

光が辺りを照らし出し、指向性のある光の先に浮かび上がったのは一本の柱だった。古くなって艶を放つ木の上に何本もの線状の傷が見える。

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「なんだろう、これ?」

わたしはお茶を取るのも忘れ、立ち上がって柱に近づいた。懐中電灯の光のせいで陰影がつき、柱にけられた傷が浮き上がっているように見える。丁度胸の辺りの高さに一本の傷があった。その上下にも数センチ刻みで柱に傷がついている。小学生くらいの子の背の高さだ。

きっとこれは背比べの跡に違いない。そう思いながら傷に手を触れた。お父さんの実家なのだから、お父さんのものかもしれない。柱の傷の部分に名前が書いてないかどうか探してみる。その瞬間、わたしは有り得ない筈のものを見てしまった。

「なに、これ……」

動悸が激しくなる。

もう一度見たものを確かめるように、すっかり磨り減っている柱の傷を指先でなぞってみた。

「ケイ……」

柱の傷と一緒に書かれていた名前は、わたしの名だった。

突然の衝撃に眩暈を覚えたが、必死で理性的な思考をしようと努めた。

電車の中で見た紅い夢に出てきた景色は、やはり自分の失われた記憶の再生なのか? それが正しいなら、何本もの背比べの跡を残すほど長い期間、わたしはここに住んでいたことになる。

違う。それは違う。そんな筈がない。

お父さんが死んで、お母さんと二人きりで暮らし始めたのは十年前。背の高さが、柱の一番下にある傷の頃だ。

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それ以降はずっとお母さんと二人暮しで、中学の修学旅行を除いて旅行らしい旅行もしたことがなければ、この家に来た記憶もない。

それに、父が死んだ原因は家が火事になったからだと聞いていた。

父のことを全然覚えてないのも、わたしがそのとき煙を吸って倒れ、ショックで記憶の一部分を失ったからということだった。だから、わたしはお父さんの顔を覚えていないし、写真ですら見たことがない。父の写真もアルバムごと全部燃えたからだ。

次々と浮かんだ疑問の行き着く先は、新たな疑問でしかなかった。もし自分がここに住んでいたのなら、どうしてこの家は燃えていないのだろう?

一番それらしく簡単な答えは、ここが自分のかつて住んでいた家ではなく、例えば夏休みに訪れるような場所だからだ。父の実家なのだから、そうであってもおかしくはない。そしてお父さんが死んで以後、疎遠になったとも考えられる。

だけど、違う。

それは、何だか違うような気がする。

何の裏づけもないまま、わたしは漠然としたその考えに取り付かれた。

この疑問に答えられた筈のお母さんはもういない。自分はこの場所と一体どういう繋がりがあるのだろう? 混乱する頭のまま、もう一度柱に目をやった。意識しないまま小刻みに震えていた指先がもうひとつの傷に触れた。するとそこにもうひとつの名前らしき文字が見えた。本当に背比べをするように、その文字と傷はわたしの名が書かれた傷とほとんど変わらぬ位置にあった。

「ハク……カ……?」

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その言葉を認識して口にした途端、頭に痛みが走った。

痛みは鋭かった。脳内を突き刺すような連続的な頭痛と共に、吐き気まで襲ってくる。まるで触れてはいけないものに触れて罰を与えられているかのようだ。そういえば、痛みは身体が発する警告だと聞いたことがある。それが本当ならば、この痛みは身体がハクカという名前について考えるなというサインを出しているということなのだろうか。

激しい頭痛と吐き気に苛まれながら、わたしはそんな考えを辿る。

「んぁっ……はっ……」

痛みは次第に強くなり、耐え切れずに声を漏らす。考えちゃ駄目だ。必死でそう思った。でも、だけど、ハクカって誰? 忘れることも思い出すこともできない。痛みは耐え切れないほどになり、目の奥までが鈍く痛み始める。

これは夢だ。

痛みから逃れたかったからなのか、それとも朦朧としていたからなのか。自分でもわからないままそう思った。思考が声になって口を出る。

「これは…夢の中?」

自分の言葉を反芻しながら、今も夢の中にいるのだと自分に言い聞かせた。だから矛盾があってもぜんぜん変じゃない。燃えているはずの家が燃えていないのも夢のせいだ。知らない誰かの名前があるのも夢だからに違いない。

難しく考える必要はない。これはただの夢なのだから。

そう自分に思いこませようとした瞬間、突然背後で聞き慣れた着信音が鳴った。

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「うひゃああああっ!?」

夜の帳を引き裂くような携帯電話の着信メロディに、わたしはビクッと身をすくませて変な声を上げた。

いったん収まった動悸がまた再発したが、ふと気付くとさっきまでの激しい痛みはどこかへ消えていた。あの痛みは何だったのだろう。そう思ったが、答えは勿論出る筈がなかった。

携帯電話はまだ鳴り続けている。着メロ指定から察するに、電話をかけてきたのは陽子ちゃんのようだ。わたしは鞄から電話を取り出し通話ボタンを押した。

「もしもし、陽子ちゃん?」
「いやー、やっと繋がったよー」
「やっとって……遅いよ」
「あー、はとちゃんご機嫌斜め?」
「ちょっとね」

わたしは着メロで驚かされた腹いせもあって、不機嫌そうに応える。もっとも、不機嫌なのは着メロのせいではなく、先程までの頭痛が原因だったのだが。

だが、そんな声を無視するかのように陽子ちゃんは続けた。

「嬉しいなぁ。そんなにあたしの声が聞きたかったなら、はとちゃんがかけてくれれば良かったのに。こーの、照れ屋さんっ♪」
「……じゃなくて。そりゃ電源切って寝なかったわたしが悪いんだけど、こんな時間にかけてくるなんてちょっと非常識だよ、陽子ちゃん」
「もしかして、またボケてる?」

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「わたしもちょうど起きてたっていうか、あんまりいい夢見てたわけじゃないから、別にいいんだけどね」
「寝てた? また? 夕方も寝てたのに?」
「こんな時間なんだから、寝てて当たり前だよ」
「はとちゃん、時計持ってる?」
「あるけど」
「見てみ」

時計を見ると思っていたよりも時間は経っておらず、まだ日付も変わっていなかった。少なくとも深夜という時間帯までにはまだ余裕がある。

「あれ?」
「電話だとうりうりーって突っ込めないのが残念でたまらないわ」

わたしの声で時間を認識したことを悟った陽子ちゃんは、ここぞとばかりに畳み掛けてくる。

「ううっ」
「こう、結んだ髪の毛、ぐいぐい引っ張ったりして」
「やめてやめて。あれ痛いんだから。将来ハゲたら絶対、陽子ちゃんのせいだよ」
「あはは、そのときは責任とったげるよー」

陽子ちゃんは冗談交じりにそう言いながら、一転真面目な口調で話し始めた。

「で、もしかしてかなり疲れてる?」
「疲れてる……かも。なんだかすごいところに泊まってるし」
「駅とか公園のベンチとか? パパさんの家には辿り着けなかった?」

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「ううん、家には着けたんだけどね」

経観塚に着いてからの出来事を、かいつまんで説明した。陽子ちゃんはふむふむと話を聞いていたが、一通り説明が済むと口を開いた。

「ふーん。それは結構波乱万丈ね。それでこんな時間から寝てたりしたわけか」
「うん、そういうこと」
「ところで、その葛って子は大丈夫そうなの?」
「大丈夫って何が?」
「明日目が覚めたら、はとちゃんの荷物もっていなくなってたとか、そーゆーの」
「大丈夫だよ。悪い子には見えなかったよ」
「フッ」
「陽子ちゃん、その笑いは何? その『あんたはやっぱり甘ちゃんね』って笑いは何かな?」
「甘いわね。若いわね」

わたしはちょっとムッとする。

「そ、そういうふうに疑ってばっかりだと自分も信じてもらえないって、お母さん言ってたよ」
「うわー、お嬢様は素直にお育ちだこと。さすがあたしのスイートベイベー」
「もう……だけどあんまり脅かさないでよね」
「いやー、やっぱ夏だし。少しは暑気払いになった?」
「そういうのとは話が違うよぅ」
「そう。じゃ脅かすついでにもうひとつ」

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「なに?」
「実はこれからが本題なんだけど―」

そこまで彼女が言いかけたところで、突然ブツッというノイズが聞こえて電話が途切れた。

「あれ?」

そのまま耳に電話を当てたままにしていたが、陽子ちゃんの声は聞こえてこない。

「どうして切れるかなぁ、陽子ちゃん」

溜息をつきながら携帯電話のディスプレイを見ると、そこにはアンテナが一本も立ってなかった。繋がらないのも納得だ。おそらく山奥だから電波が入ったり途切れたりするのだろう。

でも大事そうな会話の途中で止められるとかなり気になる。あんなに前振りを長くしないで先に本題を話してほしかった、と陽子ちゃんを恨めしくも思った。仕方ないと思いつつ電話をかけ直してみたが、電話が繋がることはなかった。

「はぁ…」

思わず大きな溜息をもう一度つくと、それと同時にお腹の虫が鳴った。今日は夕食を食べてなかったことを思い出す。空腹感と喉の渇きを感じながら、鞄の中をゴソゴソとあさって、お茶とお菓子を取り出した。

早速食べようかと思ったが、せっかくだから葛ちゃんと一緒に食べようと思い直し、お茶とお菓子と懐中電灯をもって部屋を出る。

懐中電灯で周囲を照らしながら部屋を出て、真っ暗な廊下を進んだ。廊下が軋む音に思わず身じろぎする。かなり広いお屋敷だということもあり、迷いそうになりながらも寝る前の記憶を頼りに葛ちゃんが入っていった部屋の前に立った。

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さすがに寝た子を起こすつもりはないので、声を潜めて障子越しに声をかけてみた。

「葛ちゃん、まだ起きてる?」
「誰ですか?」

返事はすぐに返ってきたが、ちょっと声が硬い。

どうやらまだ寝ていなかったみたいだ。ちょっとほっとする。

葛ちゃんのちょっと緊張したような声音は、ひとり旅をしていて用心が板についているせいかもしれない。

「わたしわたし。桂」
「桂おねーさん?」
「うん。ちょっと入るよ~」

わたしはそう言うと障子を開けて部屋に入った。

「こんばんわ、葛ちゃん」
「こんばんわです」
「それでおねーさん、こんな時間に何をしにきたんですか?」
「うん、わたしも遅い時間かなって思ってたけど、まだそんな遅い時間じゃなかったんだよね」
「ああ、なるほど。桂おねーさんは時差ボケしてるわけですね」
「え? 時差って日本にもあったっけ?」
「ないです。北海道と九州の端っこ同士なら、経度で十五度以上違いますけど、東経百三十五度線をもとにした標準時で統一されてます。もっとも一八九五年から一九四五年にかけて中央標準時とは別に西部標準時とかいうのがあったり、時勢によりけりなんですけどね」

寝ぼけた頭では葛ちゃんの言葉を理解するのもおぼつかない。

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「そうだね」

葛ちゃんの言葉にはいちいち納得させられる。これではどっちが年上なのかわからない。

「それで、何しにきたんですか?」
「え?」
「ですから、こんな時間にいったいどうしたんですか?」

なかなか本題を切り出さないわたしに、葛ちゃんから突っ込みが入る。

「あ、それはね。葛ちゃんお腹すいてないかなって思って」

わたしのお腹は、もうぺこぺこだった。

「ご近所さんに配るつもりでもってきたお菓子があるから、一緒に食べよ」

そう言うと、わたしは包装紙をぺりぺりとはがして箱を開け、先陣を切って十二個並んだお菓子の一角を崩す。お菓子は饅頭だった。

「んむっ」

美味しい。特にお腹がすいていることもあって余計にそう感じたのかもしれない。

「んぐんぐんぐ」

変な咀嚼音と共に、あっという間にひとつを食べてしまったわたしは矢継ぎ早に二つめに手を伸ばそうとした。そのときふと葛ちゃんに目を移すと、彼女はまだ饅頭に手を付けていなかった。

「ほらほら、遠慮しないでお近づきのしるしってことで」

葛ちゃんは箱に並んだ十一個のお饅頭に、黙ったままじっと視線を落として黙っている。

「もしかして、お饅頭嫌い?」

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「嫌いという訳ではないですが……怖い、かもしれないです」
「あはは。お饅頭と熱いお茶が怖いとか言っても、今日はこれ以上出さないよー」

饅頭に手を付けない葛ちゃんを不思議に思っていると、葛ちゃんの飲み物がないことに気づいた。

「あ、ごめんね葛ちゃん。飲み物ないと辛いよね。でもわたし、これしか持ってないんだけど……」

ハーフサイズのペットボトルの残りは半分ほどしかなかった。しかも直接口を付けてしまっている。

「おかまいなく。水と塩はサバイバルの基本ですから、ちゃんと備蓄してありますです、はい」
「お水かぁ」
「いえいえ、水で十分ですよ。じゃあ、いただきますね」

葛ちゃんはさっきわたしが取りかけた角から二つめの饅頭を手にして食べ始めた。たちまち彼女の表情が緩むのが判る。

「ほほう、これは結構いけますねー」
「そりゃあ、うちの地元の銘菓ですから。名物にも美味しいものはあるんだよって……あれ?」

葛ちゃんが食べてくれたことに安心して、わたしも改めて二つめに手を伸ばすと、そこにある筈の饅頭がふさふさしていた。

「?」

微妙にくすぐったくて気持ちいい感触だ。

「桂おねーさん、それは食べられるけど食べない方がいいですよ」
「ありゃ?」

手元を見ると尾花だった。どうやらお饅頭の匂いをかいでいたらしい。

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「食べたいのかな?」

邪魔をされてへそを曲げたのか、尾花はわたしの手の届く範囲からするっと逃げ出した。子狐のふさふさ感をもっと味わっていたかっただけに、ちょっと残念な気がした。

「ねえ、葛ちゃん。この子にお饅頭あげても大丈夫かな?」
「だと思いますよ。一応何でも食べる雑食性ですし、『狐に小豆』とか言いますからね」
「それって『猫にマタタビ』と同じ意味だっけ? そうか、中身の餡って小豆でできてるんだよね」

食べかけのお饅頭を一口サイズにちぎり、目の前で動かしてみる。

「ほらほら、おいでー。お饅頭だよー」
「あ、でもですね……」

葛ちゃんに話し掛けられて尾花から目を離したその直後、突然人差し指の先端付近が熱くなった。

「え?」

手から饅頭が落ちた。それが畳に落ちる前に白い子狐は後ろに跳んで、距離を大きく離して着地する。思わず引っ込めた指先に軽い違和感を覚えて視線を落とすと、生命線のしわに溜まるようにして、赤い色が広がっていった。

「あちゃー、やっぱり。尾花ってかなり人見知りするタイプなんですよ。すいませんです、桂おねーさん。大丈夫ですか?」

そこまで聞いたところで、ようやく指の痛みを実感する。

「ううん、こっちこそごめんね」

反射的にぺこりと頭を下げた。

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「かっ、顔を上げてくださーい! 桂おねーさんは悪くないです!」
「追い出さないでおいて下さった寝るとき足を向けられない大家様なのに、店子の飼い狐に手を噛まれるなんて貧乏くじも良いとこですよ」

そう言い切ると、彼女はくるりと尾花に向き直って握った拳を振り上げる。

「このばか狐! こんこんちきー! やるなら鶴か亀でも見習って、ちゃんと恩返しろー!」

葛ちゃんはそう言うと尾花ちゃんを拳で叩いた。ポクっと木魚を叩いたような、いい音がした。さらに彼女の怒号は続く。

「恩を仇で返すなんて畜生にも劣るナントカな悪行だぞ! 尾花なんて狐以下のレッサーフォックスだ! 白いからっていい気になるなー!」

葛ちゃんの無茶苦茶な言葉を聞いていると、咬まれた方が気が引けてしまった。

「葛ちゃん、もうやめて。そんなに痛いわけじゃないんだから」
「そーなんですか?」
「うん、平気」

気になるぐらいには痛むけど、我慢できないほど痛い傷でもない。微笑んでみせると、葛ちゃんは腕を下ろした。

「ごめんね、尾花ちゃん。良く知らない人にあんなことされたら怖いよね」

わたしも知らない人に『お菓子あげるから仲良くしようね。なでなでさせてね』と迫られたら身の危険を感じると思う。動物だって同じことだ。

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「こっちに置いとくから、良かったら食べてね」

畳の上に饅頭を置くと、尻尾で頭を撫でていた尾花と目が合う。葛ちゃんがまだ心配そうな声でわたしを気遣う。

「おねーさん、ホントに大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫。こんなの舐めたら治っちゃうよ。ね?」

尾花に同意を求めると、子狐は一瞬首を傾げたが、次の瞬間に小走りでわたしの方に向かってきた。

「えっ?」

ついさっき噛まれたばかりということもあり、少し動揺する。尾花は目の前に来てもまだ止まらない。動揺は更に大きくなる。

「えっ? えっ? ええっ!?」

尾花はそのまま立ち止まらずにジャンプした。反射的にわたしは目を閉じ、両手で顔をかばう。直後、頭の上に重みを感じた。恐る恐る目を開けると、目の前には白いふさふさの物体、そして頭上には尾花が乗っていた。尾花はジャンプしてわたしの頭の上に跳び乗ったらしい。

葛ちゃんの頭の上には、こういう風にして乗っているのかと変に納得していると、尾花は急に頭の上で回れ右をした。

「うひゃっ!?」

正面から後ろに回った白い尻尾が首筋を撫でる。剥き出しのうなじを撫でられたくすぐったさに首をすくめた。不安定な足場なのに、尾花は平気な足取りで頭から右肩、右肩から二の腕と移動して、最終的には体をわたしの掌に収める。

いったい、何がしたいのだろう?と考えていると、さっき噛み付いた指を今度はぺろぺろと舐めていた。

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「おねーさん、気に入られたみたいですね」
「この子に?」

わたしは尾花をじっと見つめた。

「自分から人に近づくことだって滅多にないんですよ」
「へぇ、そうなんだ」
「あはっ、ちょっとくすぐったいよ」

微動すると尾花の動きが止まり、振り返ってわたしの顔をじっと見上げた。もしかすると本当に心配してくれているのかもしれない。

「ありがとう。もう大丈夫だよ」

そう言うと尾花はするっと手から飛び降りて、さっき置いた饅頭を食べ始めた。

「わ、尾花ちゃんって賢いんだね。わたしの言葉判るのかな?」
「そう言えばそうですね。まあその辺は、わたしに似たということで」
「それ、自分で言うかなー?」
「言うべきことは言いますよー。謙遜の美徳が通じにくい世の中ですから」

葛ちゃんは胸を張ってそう答えた。

「ところでこのお饅頭、美味しいですねぇ。ここのところ甘いもの不足だったんで、止めどころに困っちゃいます」

そう言う葛ちゃんの両手に饅頭が握られている。それが入っていた箱に目を移すと、既に半分が消えていた。

「わっ、いつの間に」
「おねーさん、食べないんですか? 早くしないとなくなっちゃいますよー?」

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「わたし、まだひとつしか食べてないよー」

葛ちゃんのお父さん、お母さん。あなた方の狙い通り、葛ちゃんは逞しく育っています。ちょっと逞しくなりすぎかもしれませんが。

そう思いながら残っていた饅頭を再び食べると、葛ちゃんと尾花にお休みの挨拶をして部屋へと戻り、わたしは再び床に付いた。

あの異様な頭痛もなく、真紅の夢を見ることもなく、わたしはぐっすりと眠りの淵に落ちていった。

《第四章 了》

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