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第 三 章
少 女 と 白 銀 狐 と お 化 け 屋 敷

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「やっぱり、このまま歩いて行くことにします」

駅員さんの申し出はありがたかったが、わたしは少しでも早くお父さんの実家を見たいという想いに駆られて、そう答えた。

父の顔、父の話を教えてくれるお母さんはもういない。

母が亡くなったいま、わたしは天涯孤独の根無し草なのだ。つい一週間ほど前まで、わたしはそう思っていた。母の葬儀や事務処理で慌しく、顔も知らない父のことなど考えもしなかった。だが、そのあと税理士さんから父の実家の話を聞かされて興味が湧いた。

それは、寄る辺なき身が何かを頼りたかったからなのだろうか。

自分自身でもよくわからなかったが、わたしは未だ見たことのないお父さんの面影が父の生家に残っているのではないかと考えていた。それを早く見てみたいという想いは自分でも思っていた以上に強かったらしい。

それに田舎の夜道を独り歩くのはちょっと怖いが、駅前を見る限りでは道路の舗装もされている。バスで行き来するとは言え、そんなに遠くはないだろうと考えたからだった。

「バスがなくても、徒歩で何とかなるんじゃないかと思うんですが……」

だが間髪入れず、私の返答を遮るように駅員さんの声が響く。

「歩くと大変だよ。途中から道は悪くなっているし、暗いし」
「うっ……」

思ってもみなかった言葉に私の決心はあっさり揺らいだ。

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しかしここで挫けてなるかと、三〇分かかるというバスの乗車時間から目的地までの距離を試しに頭の中で計算してみる。仮に時速三〇キロ程度で走るバスだとすれば、三〇分の走行距離は約十五キロ……歩いたこともない距離に思わず眩暈がする。まだ明るい時間帯で平坦な道だったとしても、わたしみたいなもやしっ子が歩いていくには辛い距離に違いない。まして膨らんだ鞄を持った状態で、暗く、未舗装道路があることを考えると、スタート前から白旗状態なのは明白だ。

わたしは歩くのを諦めると、駅員さんに別の提案をしてみた。
「ここってタクシーとかないんですか?」

バスよりは割高になってしまうけど仕方がない。旅館に泊まるよりは安く済むだろう。それに、タクシーなら多少余計にお金を払ってでも目的地に直行してくれる。歩いている途中で行き倒れるよりは幾分かマシな選択に思えた。

「あるけど、呼んで欲しいのかい?」
「はい。お願いします」
「じゃあ、電話をかけてくるから。誰も来ないと思うけど、少しの間ここを頼むよ」

駅員さんはそう言って改札の持ち場から出ると、脇にある駅員専用の窓口の中に入っていった。

ふと視線を落とすと、駅員さんが置いていった切符切りがある。それを手にとって弄びながら待っていると、電話帳をめくっているのだろうか、すぐに開いた窓口から紙の擦れる音が聞こえてきた。その音が止むと次は電話のダイヤルを回す音。

ダイヤル式の電話なんて、いまどき珍しい。わたしの住んでいるところでも滅多に見ない。

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まさかタイムスリップしたわけでもないだろうが、ここのレトロさはそう思わせるに相応しいくらいの折り紙つきだ。周りの様子やこの駅の建物といい、まるで昔観た映画の中に出てきた昭和三〇~四〇年頃の雰囲気といっていいくらいかもしれない。とりとめもなくそんなことを考えていると電話の声が漏れ聞こえてきたので、わたしは何となく耳を澄ませた。

「今から配達する予定? そんな腐るようなものじゃないんだから、後でもいいじゃないか。なんだったらトランクに積んで行けばいい」

駅員さんの言葉を聞いていると、本当にタクシー会社に電話しているのか不安になる。

「ああ、そうそう。それじゃあ頼んだよ」

どうやら話がまとまったらしい。電話を終えて窓口から出てきた駅員さんは、切符切りを受け取ると、わたしに告げた。

「お嬢さん、話はついたよ。十分くらいでタクシーが来るから」
「ありがとうございます」

ほっとして、わたしは駅員さんに頭を下げた。

タクシーが到着するまで駅員さんにいろいろとこの辺りについての話を聞こうかとも思ったが、仕事の邪魔になることも考えて、駅の待合室のベンチに腰を下ろして待つことにした。

しばらくすると、夜の暗がりの中を車のヘッドライトが駅に近づいてきた。ボンネットの上にタクシーであることを示すライトが見える。どうやらさっき駅員さんが呼んでくれた車らしい。

タクシーは黒塗りで、これもまた古めかしい形をしていた。少なくともテレビで見るような最新型の車ではないことは確かだ。

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駅だけでなく、車もレトロだ。そう思っていると車が止まり、運転席のドアが開いた。運転手さんらしい男性が運転席から降りて駅に向かってくる。

「おまたせ」

そう言って男の人は駅の構内に入ってきた。年の頃は四十代半ばくらいだろうか。中肉中背で、少し白髪交じりのボサボサの頭。白い半袖のワイシャツと紺のパンツには少々皺が寄っていたが、不潔な感じはしなかった。

「やぁ、よく来てくれたね。そのお嬢さんを乗せて行って欲しいんだよ」

駅員さんが私の方を指し示すと、彼もわたしに目を向けた。二人は顔馴染みらしい。男の人と目があったわたしは軽く会釈するように頭を下げた。頭を上げると、彼はまだわたしをジロジロと見ていた。

「家出じゃないよな?」

わたしに視線を据えたまま、運転手さんが発した声はそれだった。思わず「またですか」と突っ込みたくなる。どうもここでは、わたしのような年頃の子が一人で旅行することはないらしい。どうやらレトロなのは風景や車だけでなく、住んでいる人たちの考え方も同じようだ。

「違います。ちょっと行きたいところがあって……」

わたしは思わず引きつった笑顔を作って説明する。

「鎮守の森のお屋敷まで行きたいらしいんだよ」

すかさず駅員さんが、フォローを入れてくれた。

「へぇー、あんなところにね」

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駅員さんの言葉を聞いて運転手さんはそう呟くと、腕組みして訝しげな表情を浮かべた。

いったい何を勘繰っているのだろう。わたしは内心不機嫌になりかけたが、努めて表情に出さないようにした。田舎は閉鎖的だと耳にしたことがあるが、この土地もそうなのだろうか。

見たこともないが、父の実家がある土地は多分いい場所なのだろう。道中で何の根拠もなく漠然とそう夢想していたわたしは、少しずつ自分の気持ちが萎えていくように感じた。

もしかすると表情に翳りが出たのかもしれない。わたしを見ていた運転手さんが言葉を継いだ。

「まぁいいや。じゃ、早速出発しようか」

運転手さんはそう言うと、ほんの数秒前まで疑わしげだった表情を変え、わたしに車に乗るように促して駅を出た。わたしは気を取り直し、慌てて荷物を抱えて彼の後を追う。車に辿り着く前に駅員さんを振り返り、お礼を込めて頭を下げた。

「気をつけてね」

駅員さんはそう言いながら、わたしに向かって手を振ってくれた。

古い土地で、口調や考え方も古いのかもしれないが、駅員さんも運転手さんも根はいい人なのだろう。さっきまでの考えを翻し、わたしはそう思った。

手を振る駅員さんの姿を視界の端にとらえながら、運転手さんに追いつくため早足で車へ向けて駆ける。

車へ近づくと、彼はもうタクシーに乗り込んでエンジンをかけていた。後部座席のドアが開く。車に乗ろうとして身を屈めると、開いたドアからタクシー特有の合皮の匂いが漂ってきた。

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どうもこの匂いは苦手だと思いながら、わたしは荷物を押し込んで後部座席に乗り込んだ。

「鎮守の森のお屋敷だね?」

運転手さんにそう聞かれ、鎮守の森のお屋敷であっているのかどうか判らなかったわたしは、携帯電話を取り出して液晶画面を彼に見せた。

「ここなんですけど」
「ふーん、どうやら間違いないようだ。じゃ、行くよ」

運転手さんはそう言って料金メーターを作動させると、アクセルを踏んだ。漆黒の闇をヘッドライトが切り裂いて、車はするすると動き始めた。

§

しばらくタクシーは町中を走っていたが、やがて周囲に見える民家の数は減り、遂にタクシーは舗装されていない林道へと入った。周囲には外灯もなく、車のフロントガラスの先では円いふたつのヘッドライトが夜の暗闇を押しのけて、道の凹凸を照らし出すのが見える。道路の状態にあわせて時折車が揺れる。

「真っ暗ですね」
口を開けると舌を噛みそうで怖かったが、周りの真っ暗な様子を見て思わず呟いた。
「明かりの全然ないところだからね」

運転手さんがそう言葉を返すと社内は再び沈黙に包まれ、道の小石をはじくタイヤの音と車のエンジン音だけが響いた。

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雲の隙間から見える月はそれなりに輝いていたが、それすらも森に入るまでだった。未舗装路が森に至ると、周囲はより一層暗くなった。道の両側に生えた樹からそれぞれ気ままに伸びた枝葉が重なり合い、車の窓から見える頭上を覆い隠している。車のヘッドライトだけが頼りだった。それはまさしく真の暗闇、原初の闇と呼ぶに値する。そんな考えが脳裏に浮かんだ。

やがて車がバス停らしき標識の前を通り過ぎたとき、運転手さんが口を開いた。

「もうすぐだよ。バスで行ったならさっきのバス停で降りて、ここは歩きのところさ」
「そうなんですか。やっぱりタクシーにして良かったかも」

そう返答したとき、突然森が開けて月の光が振ってきた。

それまでの鬱蒼とした森とは違う空間がそこにあった。ハッとして車内から辺りを見ると、月明かりに浮かぶ森の樹々は環状に生え茂り、その環の中心に一軒の古びた日本家屋がぽつんと建っていた。地理の教科書に載っているような家。歴史は感じられるものの、なお堅牢な造りを維持していると思われる、木造平屋建ての建物だった。

運転手さんはその家の数メートル手前で車を止めた。

「さ、到着だ」

わたしは後部座席の窓ガラスを開いて頭を外に突き出し、広がる景色を目に受け止める。森の中で醸成された、澄みきった空気が肌を刺す。

「ここですか?」

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「この経観塚で鎮守の森のお化け屋敷って言えば、ここしかない筈だからな」

運転手さんは不吉な言葉を返す。

「お化け屋敷……」

思ってもみなかった単語が出てきたことで、わたしは内心たじろいだ。

土地を守る神が司ると言われる鎮守の森と呼ばれることはまだ良いとしよう。今まで通ってきた真っ暗な森も、明るい時間に見れば緑豊かな清々しい場所に見えるのだろう。だが、お化け屋敷という表現には抵抗感があった。ある意味、それはぴったりな表現なのだろうけれど。

敷地を囲む昏い森を背に、青白い月光を浴びた木造家屋の静かな佇まい。その周囲を覆う伸び放題の雑草と苔の生した瓦屋根が、何か出そうな不気味な雰囲気を醸しだしていた。

「…………」

よく見ると、暗くてはっきりしないが、わたしはこの景色を以前どこかで見た気がした。生まれてから今まで来たことのない土地だ。なのに、いつか何処かで見た気がするのは何故なのだろう。

その考えが貼りついたまま、わたしは屋敷から目が離せずにいた。

どくん。

不意に自分の心臓の鼓動が聞こえた。

同時に息苦しさと鼓動の高鳴りがわたしを襲う。そして眼の前がほんの一瞬、時間にすればコンマ一秒にも満たない長さだったが、確かに、真紅に染まった。

わたしは思わずぎょっとしたが、視線は目の前の家に釘付けになったままだった。

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いまの紅い色は何だったのか? この息苦しさは何なのか?

胸を圧迫する息苦しさから来る正体不明の不安に苛まれながらわたしは自問し、屋敷を見つめ続けた。

「さーて、お客さん。どうするんだ?」

沈黙を破ったのは、運転手さんの声だった。その声でわたしは我にかえる。

「えっ!? どうするって?」
「ここまででいいのかい、それとも他の場所までまだ乗るのかい?」
「えーと、大丈夫です。ここでいいです」

わたしは覚悟を決め、屋敷をもう一度見た。

幸いなことに、よく見た感じでは屋敷はさほど傷んでなさそうだった。車内から見える引き戸のガラスも割れずに残っている。

お化け屋敷扱いは不当だったかもしれない。せいぜい古びた日本家屋と言ったところだ。つい先刻見たものと息苦しさから来た不安は完全に払拭できていなかったが、わたしはそれを旅の疲れから出た錯覚だったと思うことにした。

「お世話になりました」

わたしはそう言うと、運転手さんに料金を払って車から降りた。

「いいってことよ。じゃあ俺は引き上げるけど、何かの折には大伴タクシーをよろしく」

運転手さんはそう言って車をUターンさせると、来た道を戻っていった。走り去るタクシーを眺めると、月明かりのもとで車が巻き上げる砂塵がうっすらと見えた。あとにはわたし独りが残る。

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「さて」

わたしは誰にともなく独り言を呟くと、振り返ってしばらく屋敷を眺めたあと荷物から懐中電灯を取り出して決心を固め、家に近づいた。

懐中電灯の光に照らされた屋敷の入口は曇りガラスの引き戸になっていて、普段暮らしているアパートの鉄扉に慣れたわたしには新鮮に感じられた。

引き戸は黒ずんだ木製の枠にガラスがはめ込まれた、年季の入ったものだ。開かないかもしれない。そう思いながら手をかけて動かすと引き戸は思いのほか軽く、ガラガラと音を立てて開いた。

「おじゃましまーす」

長い間、人の手が入っていない筈だけど……と不思議に思いながらそっと玄関から中を覗き込む。古い屋敷にありがちな黴臭さもなく、堆積した埃が舞うこともなかった。誰も住んでいないと税理士さんから聞いていたが、どうもそうではないのだろうか。

真っ暗でよく見えなかったため、懐中電灯の光を玄関の奥に向けてみた。光を上下左右に動かしていると屋敷の奥に光るものが二つ見えた。

あれは何だろう?

灯りをあわせて目を凝らすと、それは全身を白い毛で覆われた獣の目だと解った。熊ほど大きくはないが、小さな野犬くらいの大きさはある獣。磨きこまれた木の廊下らしい床の上に座り込んでこちらを見ていた。懐中電灯の光を反射して、その眼が怪しく輝く。

予期せぬ先客の存在にわたしは硬直してしまった。

直後、その獣と目があった。威嚇するかのように獣が口を大きく開ける。開かれた口蓋から白い牙が見えた。

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咬まれる。本能的にそう感じて逃げようとするが、足がすくんで動けない。

固まったまま数秒ほど対峙していると、獣がすっくと動いて立ち上がった。

「ひぁっ!?」

わたしは金縛りから解かれたように悲鳴を上げた。弾みで開いた手のひらから懐中電灯が落ちる。足元に落ちてくるくると回転する懐中電灯が、四方に光を投げかけた。

逃げなきゃ、逃げなきゃ。

そう思ったが、棒立ちになって足が動かない。それでも屋敷の暗闇の中を足音だけがしっかり聞こえてくる。しかもそれはすぐそこまで近づいてきていた。

 わたしは逃げることを諦め、引き戸の脇で頭を抱えてうずくまり、屋敷に背を向けた。獣のお腹が減っていないことを祈りながら。

「尾花ぁ、どーしたのー?」

ほんの数秒間だったが、それを上回るくらいに長く感じられた時間のあと、唐突に聞こえてきたのは女の子の声だった。恐る恐る目を開けて背後を見ると、まだあどけなさを残した少女の顔が引き戸から覗いていた。

「え?」

白い獣だったはずなのに、女の子になっている。狸か狐にでも化かされたのだろうか。そう思いながら少女の顔を呆然と見ていると、懐中電灯の明かりを横切って白い生き物が彼女の足元に駆け寄った。

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狐?

わたしはもう一度まじまじと、彼女の足元にいる獣を見つめた。それは全身が真っ白な狐だった。さっき屋敷の中で光っていたのは、この子の目だったのだ。幽霊の正体見たり枯れ尾花。なんだか急に力が抜けて、わたしはその場にへたり込んだ。

「大丈夫ですか、おねーさん? 尾花が何かしました? 噛まれました?」

少女はわたしの顔をのぞき込みながら心配そうに話しかけてくる。

「あ、うん平気。ちょっとびっくりしただけだから」

わたしは胸の前で両手をふりながら照れ隠しに愛想笑いを浮かべ、言葉を継ぐ。

「その白い子は尾花ちゃんって言うの?」
「そうですけど……何か?」
「なななっ、何でもないよっ。別に何でも」

意味不明な返答を返しながら、わたしはふと疑問に思った。ところでこの子は一体誰なのだろう。

「そーですか……それでですね、おねーさん」
「うん?」
「おねーさんは、どなたですか?」
「あ、それはわたしも聞きたいかも。ここ一応わたしのお父さんの家らしいんだけど……お嬢さんはどなた?」

少女は一瞬の間のあと、驚きの言葉をあげた。

「ちょわーっ!? なんとっ!?」

少女はわたしにぺこぺこと頭を下げると、立ち話も何ですからと屋敷の中に案内してくれた。

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わたしは少女と狐のあとに続いて屋敷へ足を踏み入れた。

案内されて入っていくと、暗くてよく見えないが家の中は思いのほか片づいているようだった。わたしは居間らしい場所に通され、抱えていた荷物を降ろす。少女は座卓の上に乗っていたランプに火をつけた。仄かに明るい光が周囲を照らし出す。電気は通っていないようだ。

少女とわたしはテーブルを挟んで差し向かいに腰を下ろした。なんとなく少し緊張した空気が流れた気がした。わたしは緊張をほぐすために自己紹介をした。

「改めまして。わたしの名前は羽藤桂って言うの。さっきも言ったけど、ここ一応わたしのお父さんの家なの」

「わたしは若杉葛です」

そう名乗った彼女は小学生くらいに見えた。身長は一三〇センチくらいだろう。ショートカットの髪に、トップスはノースリーブの黄色と緑のパーカー。ボトムはカーキ色のショートパンツだ。右手首には赤いリストバンド。それらの出で立ちからは活発な印象を受ける。

「それで、葛ちゃんはどうしてここにいるの?」

問い詰めるような口調にならないように注意しながら、わたしは彼女に尋ねた。

「それがですね……」

そう前置きすると、彼女は滔々と語り始めた。

葛ちゃんの話では、しばらく前からここに住み着いていたそうだ。屋敷の手入れもこの子がしてくれていたらしい。その点には感謝したいくらいだが、それにしてもどうして小さな女の子が一人でこんなところにいるんだろう。

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そんなことを考えていると、突然葛ちゃんが切り出した。

なところにいるんだろう。

そんなことを考えていると、突然葛ちゃんが切り出した。

「荷物をまとめたら、すぐにも出て行きますですよ、はいっ!」
「へ?」
「住居不法侵入に関しては、この通りっ」

葛ちゃんはわたしに向かって手を合わせると深々と頭を下げて言葉を続ける。

「平謝りに謝りますんで、どうか勘弁してください。後生ですから警察や裁判所の類いには通報しないでくださいっ!」

葛ちゃんはどうやら本気で言っているようだった。

わたしの方は埃だらけの家で寝なくて済むことに感謝こそすれ、彼女をどこかに突き出す気は毛頭なかった。

「あ、うん。別に住んでたことはどうでもいいんだけど。ずっと放ったらかしだったし、掃除してくれたりしたみたいだし」

それより誰も住んでいない家に葛ちゃんのような小さい子が一人で生活していた事実が気になって聞いてみる。

「だけどね、葛ちゃんひとりでしょ?」
「そんなことはないですよ。尾花おいで!」

彼女がそう言うと、居間に入ってきた白い狐は器用に葛ちゃんの背中を駆け上がり、頭の上で白い尻尾を振った。

「尾花と一緒ですよ」

狐というだけでも珍しいのに、尻尾だけじゃなくて全身真っ白なんてかなり珍しい。よく見るとまだ子狐のようだ。尾花を見てそんな考えが一瞬よぎったが、会話を元に戻した。

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「いや、そうじゃなくて保護者の話なんだけど。ちゃんと家の人に許可もらってるの?」
「…………」

いくら夏休みとはいえ、年端もいかない子が山奥の家で独りで暮らしているのはちょっとおかしい。わたしはさらに問いつめる。

「どうなの?」
「許可というか、そーゆーものは……」

そう言ったきり彼女は口篭ってしまった。どうやら家出らしいとわたしは見当をつけた。ついさっきまで自分がそう思われていたのに。皮肉な話だ。わたしは彼女を諭す義務があるように感じられ、さらに言葉をかけた。

「葛ちゃんはまだ小さいんだし、お父さんやお母さんも心配してるよ」

だが、彼女から帰ってきた言葉はまったく予期しないものだった。

「……ないですよ」
「え?」
「桂おねーさん、心配ご無用ですよ。我が家の家風は『弱肉強食』ですから」
「ええ!?」
「それでわたしも、父と母に言われて尾花と一緒に旅することと相成りましてですね」

ますます予想しなかった答えの連続に、わたしは慌てて返答する。

「どこまで行くつもりなの?」
「未定ですねー」
「予定はいつまで?」
「いつまででしょうねー」

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わたしは小学生にまでからかわれているのだろうか。思わず絶句する。

確かに、『可愛い子には旅をさせろ』とは言うけれど、やりすぎだ。葛ちゃんはお父さんとお母さんから千尋の谷に突き落とされているのだろうか。それとも、腕白でもたくましく育つように突き放されているのだろうか。真意のほどはわからなかったが、いずれにせよ彼女の両親が相当スパルタンな教育方針を持っているのは確からしい。

そう考えたわたしの心を知ってか知らずか、葛ちゃんは我が身の境遇を語り続ける。

「……それで一日二日と経つうちにだんだん疲れてしまいまして、ついフラフラと見つけた空き家に引き込まれてしまったという次第です」

そこまで聞いて、わたしは彼女が不憫になってしまった。

「ぐすっ」
「あのー、桂おねーさん?」

いけない。不覚にも涙が出てきそうになる。鼻水も。

「それでやっぱり、わたしは追い出されてしまうんですかね?」
「ううん、夏休み中いてくれてもいいよ。なんなら、わたしも付き合うよ」
「はい?」
「学校始まるまでの辛抱だもんね。ふたりでなら、きっと強く生きていけるよ」
「たはははは。お手柔らかにお願いします、大家さん」
「うん、頑張ろうね」

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端から誰かが見ていたら、このときの会話は相当とんちんかんに見えたに違いない。事実、山奥の一軒家の中で座卓を挟んで、知り合ったばかりの女子高生と小学生らしい女の子が二人で話している光景は相当に異様だった筈だ。

「じゃ、桂おねーさん、そろそろ休みましょうか?」
「うん。そうだね。今日はいろいろあってちょっと疲れたかも」

普段ならまだ床に着くような時間ではなかったが、電気の通っていないこの家では、他にできることはあまりなかった。それに旅の疲れも残っている。今日は早く休んだほうがいいだろう。

わたしが荷物の整理をしていると、葛ちゃんはわたしのためにてきぱきと押入から布団を出して引いてくれた。どこまでも気の利いた、しっかりした子だ。

わたしは葛ちゃんに礼を言ってお休みの挨拶をすると布団に入った。

今日一日でいろいろなことがあったせいか眠気はすぐにやってきた。電車の中で、あんなに寝ていたというのに。

布団は干されていて使える状態になっていた。わたしは葛ちゃんに心の中で感謝する。

その彼女は、わたしが布団に入ると別の部屋に引っ込んでしまった。一緒の部屋で布団を並べて構わなかったのに。遠慮したのだろうか。

そんなことを考えていると緩やかな眠気が次第に身体に満ちてきて、わたしの意識は薄れていった。

《第三章 了》

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