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第一章  白 昼 夢

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木。

たくさんの木が生えている。

高く伸びる木々それぞれが好き放題に枝を伸ばし、見上げた視界の先にあるはずの空をほとんど覆い隠してしまっている。

ここは深い林か森か。気がつくとわたしは幹の太い古木が立ち並び、丈のある草が両側に生い茂る狭い道を歩いていた。

立ち止って振り返ると、瓦の並ぶ屋根が見えた。

時代劇でみるような立派な構えの門はないけれど、それは見事なお屋敷だった。平屋の大きな日本家屋で、はなれに見えるのは蔵かもしれない。

こういう屋敷に住んでいる人たちを、由緒正しい旧家の人とでも言うんだろうか。

鈴―

涼しげな鈴の音が聞こえて、わたしは前に向き直った。

その直後、誰かにぐっと手を引かれ、わたしはされるがままに歩き始めた。最初はゆっくりと歩いていたが、手を取る者の歩みはやがて速くなり、それに引かれるわたしも少しずつ足を速めた。手を引く誰かの顔はうっすらとした霞のようなものに覆われ、はっきりと見えない。男なのか、女なのかそれすらもわからない。

次第に急になっていく勾配に、ここは山なんだなと、わたしはぼんやり考えた。

わたしにもわかることがあったので、少し嬉しくなる。

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さらに進むと、舗装されていなかったとはいえ、まだ道らしかった道を外れてわたしたちは草むらを掻き分けるように進んだ。次第に歩きにくくなっているにも関わらず、わたしを引く手は逆に強くなる。

速く、速く、速く、速く。

わたしを引く手の力が強くなり、歩く速度も速まる。

誰かに追いかけられてでもいるのだろうか? 何をそんなに急いでいるんだろう。

疑問に思うまま、わたしは足元の草を踏みしめて急ぐ。草むらは次第に深くなり、足元で踏みしめられた草が音を立てる。

ざっ、ざっ、ざっ、ざっ、ざっ。

そのとき風が吹き、草むら全体がざわめいた。

ざあっ――

一陣の風が吹き抜けたと思うと、突然視界が開けた。周りを見渡したが、ここまでわたしの手を引いてきた人の姿は消えていた。わたしはひとり取り残されていた。

眼前に目を移すと、そこには数百年の年月を雨風と供に過ごしてきたかのような巨木が根を下ろしていた。

巨木の周辺には木々も草むらもなく、周辺の木々はこの大樹に遠慮しているかのように見える。

再び山を渡った風に、木々に咲く白い花がゆっくりと揺れた。

この景色に見覚えがあった。どこで見たのかは思い出せないけれど、テレビや映画で見た光景ではないということだけはわかっていた。

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これは。

この景色は。

この景色はわたしの記憶の奥に眠っていた場所だ。

その事実を認識した途端、唐突にわたしの脳裏にひとつのフレーズが浮かんだ。

たいせつなひとが、いなくなってしまった。

そのフレーズとともに、わたしは奇妙なデジャブと喪失感を感じた。この感覚は何だろうか。そして、この景色はいつ見た記憶だろうか。

まるで赤いインクを落とした水槽をガラスごしに見るように揺らめいていて、そして赤色が次第に濃くなっていく、そんなふうに曖昧でぼやけた記憶の中にあった風景。

わたしは再び眼前の景色をよく見ようと瞳を凝らした。だが、突然それを阻むように目の奥に鋭い痛みが走り、わたしは思わず瞼を閉じた。
『……駄目』

そのとき突然弱々しい女の人の声が頭の中で響くのを感じた。
『……駄目』

確かに聞こえる。誰かがわたしに語りかけている。いったい誰なのだろうか?
『駄目』

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警告は次第に強くなっていく。

ここにいてはいけない、この先に行ってはいけない。

そう感じて踵を返し巨木を背にした刹那、わたしの体は真っ白な光に包まれていった。

§

夕日の差し込む電車内で白昼夢から目覚めたわたしは、慌てて両手を使いにやり、賑やかな着信音を鳴らす携帯電話を探させる。

しまった。設定をマナーモードに変更するのを忘れてた。さっそく右手が発見した携帯電話をつかんで通話ボタンを押し、思わず小声で話す。
「はい、もしもし?」
「やっほー、はとちゃん」
「あ、陽子ちゃん」

電話の向こうの声はクラスメートの奈良陽子ちゃんだった。

陽子ちゃんとわたしは一番違いの出席番号順の座席が縁で知り合った。彼女がわたしのことを"はとちゃん"と呼ぶのはわたしの苗字をもじったためで、羽藤桂というのがわたしの本名だ。
「元気だった?」
「そりゃあピンピンしてるけど」
「それにしてもはとちゃん、久しぶりー」
「まーねー、1週間ぶりくらいかな?」

それほどでもないはずなのに、ずいぶんと久しぶりのような気がするのは、夏休みのせいだろうか。いや、違う。わたしに色々なことがあったせいだ。

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「で、はとちゃん今、暇?」
「暇といえば暇……かな」
「よーそろ。それは良かった。てっきりお邪魔だったかと」
「?」

何がてっきりなのかと疑問に思いながら、首を傾ける。
「心のステディ陽子さんが、はとちゃんの為だけに送る愛の電波放送でもはじめようかなー、とか思って電話したんだけどねー」
「…………」

わたしが黙っていると、陽子ちゃんは高いテンションから落差をつけて、犯人を名指しする名探偵の口ぶりで話し続ける。
「寝てたでしょ、はとちゃん」
「わ、何でわかったの?」

まだ、半分寝ぼけていたわたしは陽子ちゃんの鋭い指摘に思わず動揺した。
「まったく大口ぽかーんと開けて寝てるんじゃないわよ。いい若い子が、はしたない」
「ええーっ、嘘っ!? 見てたの?」
「嘘ーっ!? じゃないって。よだれの跡が付いてるよ。ふいてふいて

慌ててわたしはハンカチを取り出し、口元に手をやった。
「そっちじゃなくて、反対の方」

そう言われて、わたしはさらに慌てながら反対側の口の端をこすりつつ答えた。
「とれた?」
「……くくっ」

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電話の向こうから陽子ちゃんのかみ殺した笑い声が聞こえてきた。さらに陽子ちゃんは堰を切ったように大きな声で笑い始める。
「ぷはーっはっはっ」

もしかして騙された?

よく考えたら、仮によだれの跡があったとしても彼女に見えているはずがない。遠く離れた場所からかかってきている電話なのだから。

また騙されたという怒りと簡単に引っかかってしまった恥ずかしさ、自分の馬鹿さ加減を自覚したのが混じって、顔に血が昇っていくのがわかる。わたしの顔は、耳まで真っ赤になっているだろう。

わたしは周囲をきょろきょろと見回しつつ、さっきまでと違った低いトーンの声を出す。できるだけ怒っているフリをして。
「よ・ぉ・こ・ちゃーん」
「いやいや、はとちゃんってホント面白いねー。さっすがあたしのおもちゃ一号認定機」

ひどい言われようだった。この電話、切っちゃおうかなとも思ったが、わたしは口をとがらせて棘のある返事を返す。
「それで? 何の用?」
「そうそう。今暇なら明日も暇でしょ? 一緒に遊びにいこ?」
「無理」

さっきの仕返しとばかりにできるだけ冷たく即答した。思った通り、電話の向こうで陽子ちゃんは沈黙している。
「…………」
「無理です」

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さらに駄目押し。他人行儀の敬語口調。
「…………」
「…………」
「…………」

お互いの沈黙はしばらく続いたが、耐えきれなくなったのか陽子ちゃんの方から沈黙を破った。
「うわー、いじけた? ムカついた?」
「ムカついた」
「ごめん、ごめん。明日おごるから許してちょ」

ついに陽子ちゃんが折れた。主導権を握ったと感じたわたしは笑みを浮かべながら言葉を返す。
「そこまで言うんなら、許してあげないでもない」
「サンキュー、はとちゃん愛してるー。フンパツして明日はお昼にデザートまでつけちゃうよー」
「景気がいいね、陽子ちゃん。でもごめん、デザートは食べたいけどやっぱり明日は無理なんだ」
「なんでよ?」
「実は今、そっちにいないんだ」
「そうなの? はとちゃん、今、どこいるの?」
「電車の中。ごとごといってるの聞こえない?」

鉄のレールごしに枕木を蹴る振動が、心臓の音のようなリズムを刻んでいる。

すっかり寝入ってしまったのは、このゆりかごのような心地よい揺れのせいかもしれない。それとも単に疲れていたんだろうか。

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「どうかな? 聞こえないなら床に携帯近づけるよ?」
「いや、いい。何となく聞こえた。でも電車の中にしちゃ、やけに静かじゃない?」
「ガラガラなんだ。ボックス席占領。っていうか、一車両独占かな」

自分の言葉を確かめるように、わたしは腰を浮かして再確認した。やっぱり、乗車したときと同じようにこの車両にいる乗客はわたしひとりだった。

携帯電話をつかって、あまつさえ普通のトーンで喋れるのも、この貸しきり状態あってこそだ。わたし羽藤桂は無人の電車内を除いて電車内での迷惑電話に反対します――と、それはさておき。
「すごいよ。隣の車両にも誰もいないみたい」
「夏休み真っ盛りのこの時間帯にその状況って、いったいどういう路線なの?」
「すっごいローカル」
「端的な説明ありがと。少なくとも近場じゃないわね」
「うん。遠い遠い。今日はもう、ずーっと電車に乗りっぱなし。ちょっとお尻、痛いかも」
「それはそれはご苦労様。で、そこまでしてどこ行くの?」
「えーとね、経観塚ってところ。お父さんの実家があるんだって」

そこまで言ったところで、電話の向こうからガタッという音が聞こえた。驚いて椅子から滑り落ちたのかもしれない。
「はとちゃん、それってどういう事っ!? パパさんの実家ってっ!?」

電話から響く陽子ちゃんの声でちょっと耳がキーンとした。父親の実家に行くぐらいで、何を大げさな、と思うのが普通だろう。

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だけど、わたしの場合は少し事情が違っていた。うちにはずっとお父さんがいなくて、わたしは顔すら思い出せない。陽子ちゃんはそれを知っている。

わたしの家は母子家庭だった。

そして「だった」と過去形なのは、この夏にお母さんが亡くなったからだ。

何かの事故に遭ったわけではなく、少し具合が悪そうかな、と思っていたらそれっきり。あっさり静かに逝ってしまった。原因は過労のようなものだったらしい。
「もしかして、引っ越すつもり!? 学校なんかも変わったりするのっ!?」
「あ、それはない。ないと思うよ。お祖父ちゃんとか親戚がいるわけじゃないから、住むのが目的で向こうに行くんじゃないし」
「はぁ~~~」

わりと呑気なわたしの声に、陽子ちゃんが大きく息を吐いたのが聞こえた。
「だったらなんで?」
「なんかね、わたしに残された遺産とかを調べてたら、経観塚の家があったんだって」

そういう整理をしてくれた税理士さんが言っていた。ちゃんと家の鍵も受け取った。税金関係など色々と問題があるから、相続するか手放すかを決めないといけないらしい。
「それで、とりあえず見に行こうかなって」
「へー、大変なのねぇ」
「大変だよー」
「夏休み中で暇だったし、言ってくれれば付き合ったのに」

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「あ、その手があったね」

わたしはぽんと膝を打った。
「知らない場所にひとりで行くのって、けっこう緊張するんだよ」
「そう? 緊張してる人は、よだれたらして眠りこけたりはしないんじゃない?」
「だから、よだれなんて」

そこまで言いかけたところで、突然ブツッというノイズが聞こえた。
「って、あれ? 陽子ちゃん? 陽子ちゃーん?」

呼びかけてみるものの電話は繋がらない。そうしているうちにプー、プーという通話終了音が耳に入った。電波が届かないところに入ったのだろうか。かけ直してみたが、電話が繋がることはなかった。
「ふぅ」

ため息をひとつついて西日の射す窓に目を向けると、すでに景色が大きく変わっていた。電車は山間を抜けるように走り、深い緑が線路の両側を覆っていた。太陽はとっくに傾いていて、緑とオレンジが混じった、深い色合いが広がっている。

ガラスとコンクリートとアスファルトの、硬い世界を見慣れているわたしにとって、真新しい景色が広がっていた。
「お父さんの田舎かぁ」

そうつぶやいて、まだ手にしたままの携帯電話を見ると、最後に確認した時間からはずいぶんと経っていた。

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目的地はもうすぐだろう。車内にはひた走る電車の奏でる規則的な音だけが響いていた。

ごとん、ごとん。

がたん、ごとん。

シートに深く座りなおし、揺れる電車に身を任せる。

ごとん、ごとん。

がたん、ごとん。

眠気をもよおす揺れに、わたしは瞼を落とす。

ごとん、ごとん。

がたん、ごとん。

目を閉じても、黄昏の世界は消えない。

いよいよ目線の高さにまで落ち込んだ夕日は、瞼に走る血の色を透かして、世界を朱に染め上げていく。

そうして眠り込んだわたしは再び夢を見た。

それは赤い、すべてが真っ赤に塗りつぶされた真紅の夢だった。

《第一章 了》

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